仏陀は人々の生老病死と怨憎会苦(憎らしい人と共にいなければならない苦しみ) 愛別離苦(愛する人や親しい人と別れなければならない苦しみ)求不得苦(求めても得られない苦しみ望みが満たされない苦しみ)五陰得苦(心身の活動が盛んなるゆえにおこる様々な迷いに悩まされる苦しみ) 生老病死の四苦に加えて四つの苦しみを四苦八苦と仏教では言われています。 厳しい修行をしても、苦の解決はできなく、永遠に解けないであろうと思われていた、人々の苦しみをゴータマは人々の四苦八苦の苦の解決を菩提樹の下で悟られた。要するに自ら悟り成仏して仏陀となりました。 今まで経験した事のないすがすがしい喜びの世界、偽ザル真実のご自分の姿をはっきり観た。 この時の本当の姿は時間や空間を限りなく超越した広大なる生命だった。
空間的には全宇宙を包む大きな生命だった。 自分と他人との区別がない、全てを慈悲で包み込んで御自分の内に収めすべてと一体になっている。 したがって他人の喜びは自分の喜び他の悲しみは自分の悲しみ、涅槃経のなかで、お釈迦様は一切衆生の異の苦を受けるのは悉く是れ如来一人の苦なりといわれ、自他の区別を超越した大きな生命になられている。 私達凡夫はすぐに、自他を区別してしまう。 だから他人の喜びは妬んだり他人の悲しみには優越感をもったり、ザマーミロというような心地になる。 こういう心がもとで、恨み、妬みの争いになり私たちの苦しみの根源になる。
時間的にはどうか、お釈迦様は始まりもなく終わりもない、無始無終、過去、現在、未来にわたる生命だった。 これがお釈迦様の時間的な広がりですから、広く全体を見通した大きなものの見方が出来る。私達は自分中心で小さい。私利私欲に囚われ、毒されて狭い。 些細な事でも大げさに考えて悩み、沈み込んでしまう。 ちょっと良い事があると、有頂天に担って、慢心の心を起こす。 お釈迦様の時空を超えた大きな生命を久遠実成といって、久遠の昔に事実として成仏している。 要するに悟られたお釈迦様は法華経の寿量品でお説法に至って解き明かされるところの、久遠実成の本仏だった。 つまり元々仏様だった久遠の本仏が人々を救済するために人間の姿となって娑婆世界に現れたのが、この時の自分だった。
悟られたお釈迦様はこの喜びを生老病死に苦しむ人々に私と同じように味わって頂きたい。 一切の衆をして、我の如く等しくして異なることを無駆らんように欲せり 方便品
しかしお釈迦様の悟りの境地と人々の行いや心の持ち方ではあまりにも差が大きすぎて、説いてもわかってもらえない、受け入れてもらえない。人は自分が理解できないと教えを軽視する。いっそのことこのまま説かずに入滅(肉体を持ったお釈迦様がお亡くなりになる)してしまおう。
そこに梵天や帝釈天が現れ。人々の中にはわずかながら、理解できる者もいるでしょう。衆生の為に解いてください。(梵天勧請)
そこでお釈迦様は考えられ、過去にこの世に出られた仏がみんなやってきたように私も低い教えから高い教え、浅い教えから深い教えへと次第に高めていって、最後に真実を打ち明けようとし、最後の8年間を法華経を説かれた。
法華経は、他の心に従って説かれた教えではなく、釈尊が御自分の心に従って説かれた経だから、随自意の経だと言われ、諸経の王だといわれるゆえんです。 お釈迦様の本心が説かれている。 法華経以前に解かれた教えはお釈迦様の言葉であっても、隋他意の経です。
特にお釈迦様は末法に生まれてくる人を特に心配しました。お釈迦様の慈悲の心も悟りの智慧も救済の力もご自身に具わる功徳のすべてを込められた教えが法華経です。法華経はお釈迦様の生命そのものです。 ですから日蓮聖人は法華経の文字を拝見するのは生身のお釈迦様お会いして入るのと同じことだといわれています。 この経の文字は釈迦如来の御魂だといわれています。
日蓮聖人は法華経を師として共に身をもって、実践されました。 法華経に解かれている通り、刀で切り付けられたり、刑場で首を跳ねられそうになっても、神の守護によって救われました。二度にわたる再の流罪もありました。 お釈迦様の地湧の菩薩の一番弟子の上行菩薩が日蓮聖人に応現をされ、末法の大導師となって、お釈迦様の所へ導いてくれる。
● 日蓮は日本第一の法華経の行者である。我が弟子信者等の中に私の後から来る者がいたなら、梵天、帝釈天、四天王や閻魔法王等の前で「日本第一の法華経の行者、日蓮御房の弟子信者なり」と名乗って通られるがよい。この法華経は三途の河を渡る時には船となり、死出の旅路では大きな白牛が引く車となり、冥途への道中では燈明となり、霊山浄土へ渡す橋ともなるだろう。霊山へ来られたなら、その入り口である(丑寅) の渡口で日蓮をお呼びなされ。必ずそこでお待ちしておるから。
誰でも死んだらどこに行くか? 死が近づくと心配になられる方はいるでしょう。 仏教は死んだら無になり全てが終わると言う教えは有りません。
今世の行為(業)によって、引き継がれてゆく。 ここまではっきり言われると、安心できます。
「生きとし生ける者どもは死ぬであろう。生命は終には死に至る。かれらは、つくった業の如何にしたがっておもむき(それぞれ)善と悪との報いを受けるであろう。」 (感興のことば)
? 第六に法華経本門文底の釈尊があります。すなわち久遠元初自受用身・即南無妙法蓮華経の教主・日蓮大聖人であります。
日興上人の教えにも違背する 獅子身中の虫、仏教から外れた、法華経の題目を外れた外道の日寛教ではいくら唱えても成仏は無理。
日蓮聖人の本地は上行菩薩 でお釈迦様の元々の弟子。 今も弟子。 未来も弟子。
一仏法流布の次第
一正法千年流布 小乗 権大乗
一像法千年流布 法華 迹門
一末法万年流布 法華 本門
今ま末法に入つて本門を立てゝ国土を治む可き次第。
桓武天皇と伝教大師と共に迹化付属の師檀と為つて爾前を破つて迹門を立てゝ像法を利益し国土を護持する事之を図す。
迹門の寺 付属の弟子は 薬王菩薩 伝教大師。
比叡山 始成の釈迦仏 迹化垂迹の師檀 像法。
垂迹神 (天照太神八幡大菩薩) 桓武天皇。
今ま日蓮聖人は共に本化垂迹の師檀と為つて迹門を破して本門を立てゝ末法を利益し国土を治む可き之を図す。
本門の寺 付属の弟子 上行菩薩 日蓮聖人。
冨士山 久成の釈迦仏 本化垂迹の師檀 末法。
垂迹神 (天照太神八幡大菩薩) 当御代。
南無妙法蓮華経
命に合掌
