世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず、賢人・聖人も此の事はのがれず、ただ女房と酒うちのみて南無妙法蓮華経と・となへ給へ
苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて 南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ 四条金吾御返事

 

鎌倉時代は天変地異が重なり、大地震や飢饉、疫病、その上蒙古襲来の恐れがあると、人々は不安にかかり、まさに現代日本と同じような不安にさらされています。そのような時代になって,聖人は信者さんに、誰も逃れる事はできない、奥様と仲良くお酒でも飲んでお題目を唱えていなさいと言うような、教えです。 プーチンは禁止されている爆弾までつかっているが、防空壕には効き目が少ない。たぶん毒ガスなどの兵器もつかうでしょう。 このような、人に流されてしまう人は悲劇です。

さて 法華経信仰は真言密教から、「法華経には三密が欠けている」と強烈に批判されてきました。 密教で説く即身成仏には、身・口・意の三密の修行が不可欠である、とされました。具体的には、手で印を結び(身密)、口で真言を唱え(口密)、心に本尊を思い浮かべる(意密)ことを指します。即身成仏に不可欠な三密のうち、法華経にはただ意密だけあって、身密と口密がないというのが密教からの批判です。

 

これは、日蓮聖人の教えを知らない真言僧だからでしょう。  元々日蓮聖人は得度された寺が密教が強い寺だったから修行の満願の日に虚空蔵菩薩から宝珠を授けられたと伝えられています。 むしろ法華経を第一の経にしなかった空海の生まれ変わりぐらいに思われていた方がよいでしょう。

 

聖人は

018 (coocan.jp)
上記の曼陀羅には金胎兩界の大日如來を勧請されている。 大日如来は多宝如来の仮仏。

 

 

 

宗祖が臨終時 池上で掲げられた曼荼羅本尊です。

 

一大事の秘法である南無妙法蓮華経が三つに分かれるのか。 寿量品で、久遠本仏の真理面[仏教用語では法身(ほっしん)]・智慧面[同じく報身(ほうじん)]・慈悲面[同じく応身(おうじん)]の三面性が一つにもなるしまた三にもなり(それを相即するという)、しかも本来無始無終である法身はもちろん、有始無終である報身、有始有終である応身もすべて永遠であることが説かれ、その三面性が三大秘法となるのです。  真理、智慧、慈悲の三面が具わっている仏様は仏典に出てくる仏様は法華経寿量品の釈迦牟尼世尊だけです。

上記の本尊には、左右に双竜のような形で不動明王、愛染明王があらわされています。 成仏の為の宝珠である寿量品の肝心である南無妙法蓮華経の玉、不動の剣、と八咫鏡、神道で言われる三種の神器がそろっています。


 

寿量品の肝心である南無妙法蓮華経を合掌しながら自分も日蓮聖人がおられる末席でお釈迦様から妙法蓮華経の教えを聴聞をしている。

妙法蓮華経の五字を意でも読み、口でも読み、身でも読むのが、日蓮宗の受持成仏です。 印は指の形なんかには囚われません。合掌印。

 

阿字観や止観などの瞑想をしても、煩悩が具わっているから、六根清浄の数年厳しい修行をしても、悟る事はできる人は少ないでしょう。 座していても、気持ちは落ち着くが、娑婆に出れば煩悩を抑える事は難しいでしょう。  公案禅でも答えのない質問、例えば、片手で拍手するには、どうするのか? とか底のない柄杓で水を汲むにはとか?答えが無い、問答をいくらしても、せいぜい悟るのは、自分で考えて何でもする事ぐらいでしょう。   法華の行者はお釈迦様の仏弟子として、現実社会でお釈迦様の手足となって働く事でが、仏様の因行となる。  自然と欲はすくなくなり苦しんでいる方に寄り添うようになる。

 

● 寿量品と申すは本門の肝心なり、又此の品は一部の肝心一代聖教の肝心のみならず三世の諸仏の説法の儀式の大要なり、教主釈尊寿量品の一念三千の法門を証得し給う事は三世の諸仏と内証等しきが故なり、但し此の法門は釈尊一仏の己証のみに非ず諸仏も亦然なり
、我等衆生の無始已来六道生死の浪に沈没せしが今教主釈尊の所説の法華経に値い奉る事は乃往過去に此の寿量
品の久遠実成の一念三千を聴聞せし故なり、有り難き法門なり。

 

命に合掌