日興上人が身延山を離山し、実長の子息の清長に当てた手紙が原殿ご返事です。

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この書から日興上人が正しいか正しくないかは別にして、立正安国論の読み方に五人対一の構図が見られます。

 

殊にいたく此の国をば念仏真言禅律の大謗法の故大小守護の善神捨て去る間、その後の祠(ほくち)には大鬼神入り替わりて、国土に飢饉、疫病、蒙古国の三災連連として国土滅亡の由、故に日蓮聖人の勘文関東の三代に仰せ含ませられ候い畢んぬ、此の旨こそ日蓮阿闍梨の所存の法門にて候え、国の為世の為一切衆生の為の故に、日蓮阿闍梨仏の御使として大慈悲を以つて身命を惜しまず申され候いきと談じて候いしかば、弥三郎殿念仏無間の事は深く信仰し候い畢んぬ、守護の善神此の国を捨去すと云う事は不審未だ晴れず候。

 

 其の故は鎌倉に御坐し候御弟子は諸神此の国を守り給う尤も参詣すべく候、身延山の御弟子は堅固に守護神此の国に無き由を仰せ立てらるるの条、日蓮阿闍梨は入滅候誰に値てか実否を決すべく候と、委細に不審せられ候の間、二人の弟子の相違を定め給うべき事候。師匠は入滅候と申せども其の遺状候なり、立正安国論是れなり。

 

立正安国論の神天上の考えたの違いです。


世皆正に背き人悉く悪に帰す。

(この災難の原因は、世の中のすべての人びとが正しい教えに背いて悪法邪法に帰依した事にあります。)

故に善神国を捨てて相去り、聖人所を辞して還らず。

(そのため、国を護る諸天善神はこの国を捨てて天上に去り、正法を広める聖人も去って還ってこないのです。)

 是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る。

(その隙に乗じて悪魔や悪鬼が押し寄せて来て、次々に災難が起こるのであるということがわかりました。)

 

日興上人は諸天善神は日本国を捨てて天上に去っている、だから悪鬼が群がっている神社なんかには行くなとされた。

 

其のことにに対して実長は民部阿闍梨(日向上人)に問い合わせた。  日向上人は御返事申され候ける事は、守護の善神此の国を去ると申す事は、安国論の一遍にて候えども、白蓮阿闍梨(日興上人)外典読みに片方を読みて至極を知らざる者にて候、法華の持者参詣せば諸神も彼の社壇に来会すべし、尤も参詣すべしと申され候、  そして、鎌倉の日昭上人や日郎上人も日向上人の読み方が正しいとされ五対一のお弟子の構図があった。

 

念仏や法華経を大切にしない邪教が蔓延るから守護神が天上に去っている。 正法を実践する法華の行者は、悪鬼があろうとも、題目を唱えて、日本を守る諸神を呼び戻すのを本意とした。  その違いがあった。

 

 

実長は源氏一族の繁栄の為に念仏の南部郷の内福士の塔供養の奉加に参加してしまった。 私の実家は父母共に念仏でしたから、法事なんかで、どうしても、参加しなければ、ならない事がある。 阿弥陀如来を祀っていますが、私は念仏を唱えません。  お釈迦様の十方分身諸仏の阿弥陀様、ご苦労さんという感じです。 

 

此れのみならず、日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候えども、未だ木像は誰も造り奉らず候に、入道御微力を以つて形の如く造立し奉らんと思し召し立ち候に、御用途も候わざるに、大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏の代わりに其れ程の仏を造らせ給えと教訓し参らせ給いて、固く其の旨を御存知候を、日興が申す様には、せめて故聖人安置の仏にて候わさばさも候いなん。

 

 それも其の仏は上行等の脇士も無く始成の仏に候いき、其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候いぬ、なにのほしなさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給うべき。御力契い給わずば、御子孫の御中に作らせ給う人出来し給うまでは、聖人の文字にあそばして候いしを安置候べし。いかに聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主の木像をば、最前には破し給うべきと強いて申して候いしを、軽しめたりと思し食しけるやらん、日興はかく申し候こそ聖人の御弟子として、其の跡に帰依し進らせて候甲斐に重んじ進らせたる高名と存知候は、聖人や入り替わらせ給いて候いけん、いやしくも諂曲せず、只経文の如く聖人の仰せの様に諫め進らせる者かなと自讃してこそ存知候え。

 

日興上人は日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来と言われていますね。  板きれは日蓮聖人の本懐だとするような教えは日興上人にはありません。

宗祖が持仏としていた、釈迦像を日郎上人が持って行ってしまった。  そこで実長は借金をしてまで、釈迦仏像を造立したが、脇士である宗祖の本地仏である四菩薩がないから、子孫の内で余裕が出来るまでは、日蓮聖人から授与された文字 本尊を安置しておきなさいと教示されています。

 

日蓮聖人の御法門は、三界の衆生の為には釈迦如来こそ初発心の本師にておわしまし候  と日興上人は云われていますが、他の上人たちもそこは同じで外道の外道の日寛教だけガ、宗祖の教えから外れている。

 

日興上人は 北山本門寺に本堂、そして祖師堂、天照大神の三堂を造立された..。

 

宗祖は身延山で富士の神社、そして下部温泉に行ったついでにという事に対しての尼にはお会いしなかった。 法華経、お釈迦様が先だという事。 そのことをしっかりわかっていれば、神社参拝は問題ないでしょう。

 

うぢがみへまいりてあるついでと候しかばけさんに入るならば定めてつみふかかるべし、其の故は神は所従なり

法華経は主君なり所従のついでに主君へのけさんは世間にもをそれ候、其の上尼の御身になり給いてはまづ仏を

さきとすべし、かたがたの御とがありしかばけさんせず候、此の又尼ごぜん一人にはかぎらず、其の外の人人も

しもべのゆ(下部温泉)のついでと申す者をあまたをひかへして候、尼ごぜんはをやのごとくの御としなり、御

なげきいたわしく候いしかども此の義をしらせまいらせんためなり。

 

 

 

命に合掌

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