今末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし、但南無妙法蓮華経なるべし。
日蓮聖人が上記の様に余経も法華経もせん(詮)なしと言われた、法華経はどのような法華経かという事です。 それは、一言で言えば、一念三千を智慧によって、悟る法華経の事です。
これは、末法に生じてきている者は、煩悩が具足しているから、一念三千という大生命だと気づけない、いくら、苦行をしても、凡夫の身、吾の心を理解できない、ようするに経を読んだり、書写したり暗記したりしても、、修行をしても智慧がないから、、悟りという成仏には至らないという事です。 修行の段階である52位の階位である略劫修行にも耐えられない。 そうなると末法は、誰も成仏が叶わない仏に成る事が出来ないとなります。
天台大師や最澄さんの教えは参考にはしますが、日蓮聖人は、自分の考えではなく、すべて、経典からの解釈です。 上行菩薩の応現の自負を持って、教え伝え実践された法華経は、末法に生じた凡夫には一分の智慧もないから悟る像法時代の法華経では無く、以信代慧といって、お釈迦様の智慧の法(妙法蓮華経)を信じる事(南無)という絶対信によって、自然譲与される法門です。
【信】じる処法華経、【仰】ぐところ釈迦仏 という言うのが、日蓮聖人が教える信仰です。 法華経には智慧第一といわれるお釈迦様の弟子の舎利弗尊者であっても、信じる処から、悟りに至られた。
釈尊はそれぞれの人に合わせて教えをとかれました。 八万聖教といわれる多くの経典が残されているが、法華経(妙法蓮華経)は釈迦様が自らの心に随った本心の教え随自意の教えといわれています。 法華経を説かれるまでのお経は随他意の教えで,法華経に入らしめるための方便的な教えです。
日蓮聖人は法華経の文字を拝見しているという事は生身のお釈迦様にお会いしているのと同じことですと四条金吾さんに話されています。
ですから、妙法蓮華経=お釈迦様
名は体を表す、例えば日本という文字があれば、中身は海に囲まれた島国、 侍、芸者、相撲、柔道、切腹、経済大国、被爆国、富士山、***ETCどれも間違いではありません。
妙法蓮華経の題目の五字=法華経の全てです。
ゆえに、題目の五字=お釈迦様の全てでもあります。
つまり妙法蓮華経の五字の中にはお釈迦様の全てが具わっているという事です。
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を
受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う
日蓮聖人が教えるのは、受持成仏です。 末法ではお題目の修行が大切な正行となり、法華経を読んだり、暗記したり、書写したりするのは、助行ですが、助行と言えども法華経を受持するための行となります。
禅宗さんの法華経
「悟りをひらいた仏陀(如来)として仏眼で世の中ををみると一言では言うことはできない。それは、人々の性質・欲望はそれぞれ異なるからである。性質・欲望が異なるのでそれらに応じて沢山の方法で教えを説き、導いてきた。それゆえ四十余年いまだ真実を説いていない。」
お釈迦様の説かれた膨大なお経で、「法華経」以外のお経は「随他意」のお経といって、相手に合わせて説かれたお経で、「法華経」だけは「随自意」のお経として説かれたと言われています。すなわち、釈尊のお悟りそのものを相手に合わせるのではなく、釈尊の御心のままに説かれたのです。
さらに法華経においては
「世尊は法久しくして後、かならずまさに真実を説くべし。」「正直に方便をすてて、ただ無上道を説く。」「わが説くところの諸経、しかもこの経において法華最も第一なり。」等等
すなわち、「法華経」は「釈尊の悟り」そのものであるのです。そこには最高の真理が説かれているといわれます。
法華経と道元禅師
法華経については道元禅師も大切なお経として大事にされ、自らが遷化される事になる庵を「妙法蓮華経庵」と名付けられました。 ご著書の「正法眼蔵」は法華経の解説書とも言われるほど法華経を大切にされておられます。 臨済宗中興の白隠禅師も法華経によって大悟されました。
また、良寛様もいつも無一物の庵でも法華経は常に読まれて法華経に関する詩を多数遺されています。有名な行基菩薩も中国から鑑真和尚が来日されたときに、船までお出迎えされ、「霊山の釈迦のみもとに誓いてし真如つきせじあいみつるかな」と歌われています。この意味は、あなた様とわたくしは昔釈尊ご在世の時に、霊山会上において法華経のご説法を一緒に聴聞し、未来永劫お互いに仏法のために働きましょうと誓いあいましたが、その因縁が尽きないで今日ここにお会いできて、まことに嬉しいとのことです。非常に感動的なエピソードです。
南無妙法蓮華経
命に合掌
