戦後急速に池田氏の言葉に躍らせられてしまった、方々も、今は2世3世の時代となって、正しかったのだろうか?
又、知り合いが学会という方も、おられる事でしょう。 中には頑張って社会活動をされている方もいると思われますが、仏教に今まで縁が薄かった人を含めて、勉強することは無駄ではない事を信じて話をいたします。南伝仏教もお釈迦様を離れての教えは有りません。 真言宗とてお釈迦様を大切にします。 他宗派攻撃をあまりしない日蓮宗は学会員からみれば、邪宗教の中の邪宗と言われます。それぞれの宗派は良いところ,感心しないところもあるでしょうが、寺は誰もが集まり楽しく開かれた場所でなくてはならない。
なぜ池田氏は「釈迦が本仏であり、日蓮聖人は釈迦仏法による民衆救済を本懐とされたというのか。まことに
浅識な論断である。」 創価学会教学部編 と言われたのか?
これは、富士にある現日蓮正宗の大石寺という寺に江戸時代に日寛という法主が、現れ、日蓮聖人の教えを変えてしまったからです。
当然、日蓮聖人の教えに背きます。 この寺からは学会だけでなく、顕正会とか警察ににらまれている団体が後を絶たない。
妙法蓮華経 譬喩品
「今この三界は皆これ我が有なり。その中の衆生はことごとく これ我が子なり。しかも今この処は
もろもろの患難多し、唯われ一人のみ能く救護をなすなり。(三界=一切の世界)
日蓮聖人はこの文から、釈迦牟尼仏を私たちの主であり、師であり、親であるという唯一人の衆生が敬う仏様だという解釈です。
日蓮聖人御遺文(諸法実相抄、一ノ谷抄)
「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊の久遠の弟子たること
疑わんや」(久遠=永遠の過去)
「法華経に背き、釈迦仏を捨つるが故に、後生は必ず無間地獄に堕ちんことはさておきぬ、今生にも
大難に値ふべし」
日蓮聖人の言葉を教えられないまま、背く行為をしてしまう学会員は、謗法の徒になります。
創価学会には、教学試験なるものが、あって、日蓮聖人の教えを勉強し、教学の指導者として学会員に教えるのですが、若い時には 宗祖の手紙をあまり読んだことがない私は、教学試験2級の方に教えられ、嘘に負けない教学を勉強する事できたえられました。 そういう面からは、学会教学の先生、間違った解釈を伝えてくれて、ありがとうという感じです。
例えば、下記の上野殿ご返事という宗祖が書かれた手紙があります。
南無妙法蓮華経と申すは法華経の中の肝心、人の中の神(たましい)のごとし。此れにものを・ならぶれば、きさき(后)のならべて二王をおとこ(夫)とし、乃至きさきの大臣已下になひなひ・とつ(嫁)ぐがごとし。わざはひ(禍)のみなもとなり。正法・像法には此の法門をひろめず。余経を失わじがためなり。
今末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし、但南無妙法蓮華経なるべし。かう申し出だして候も、わたくしの計(はからい)にはあらず。釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御計(おはからい)なり。
此の南無妙法蓮華経に余事をまじ(交)へば、ゆゆしきひが(僻)事なり。日出でぬれば・とほしび(灯)せん(詮)なし。雨のふるに露なにのせんかあるべき。嬰児(みどりご)に乳(ちち)より外のものを・やしな(養)うべきか。良薬に又薬を加えぬる事なし。
今末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なしというところを学会教義は、はぎ取ります。
ようするに、釈迦が説いた余経も法華経も末法には役に立たない、そんなもの去年の暦、末法は日蓮大聖人が本仏だという解釈なんですね。
釈尊の遺言といわれる、大集経に説かれている三時の教えがあります。
自分が説いた教えで有っても、時が流れたら受け入れる環境や人の考えも変わり、教えが正しく伝わらない、という事を知っていて、予言をされたのでしょう。
法然さん親鸞さんも、正法時代、像法時代、末法時代を重んじました。
日蓮聖人はどのように、三時の法脈を考えたか? 参考になさって下さい。
<日蓮大聖人>というとこrをクリックすれば、宗祖の三時の考え方がお分かりになります。
命に合掌
