お釈迦様は対機説法でしたから、弟子たちだけでなく、多くの人たちにその人に一番合った時の教えをしてきました。 そのため多くの教えが語り継がれ、それを、菩薩たちが、まとめたものが、経典として残され語り継がれてき、数多くの経典があります。 多くの経典は、人はかくあるべという。 心の面から、説かれている教えが多いのですが、経典そのものが、言われている中で、諸経の王といわれる最上法経が説かれているのが、妙法蓮華の教えである。法華経です。 法華経は物理面から説かれている教えでもあります。
なぜ、人を殺めてはいけないのか?
お釈迦様は、第一に「不殺生戒」、人を殺すことを戒めております。 お釈迦様は、生まれてすぐに、七歩歩いて天上天下唯我独尊(天の上にも天の下にも唯だ我独り尊い)と宣言をされました。この宣言は、独善的なものではなく、自らが何よりも尊いという事は、他の人も自分と同じ様に、何よりも尊い存在であるという事です。 生じた赤ちゃんが、すぐに歩けるわけがない、この言葉は、自分だけでなく、誰もが何よりも尊い存在だという事です。 その尊い存在を自分が気に食わない奴だからと抹殺することは、他は、かけがえのない尊い存在だと思っていない自己中の畜生にも劣る行為になる。
そうはいっても、弱肉強食の人間社会には、生きてゆくためには、他の犠牲はやむを得ない自助だという考え方が蔓延凝っているのが、現代日本社会です。 法華経以前に解かれた教えは心の在り方の面から説かれた教えが多い が法華経に入ると、物理面から説かれている教えに成る。 死んだら終わりではありません。 自業自得、生前の善悪の行為による業(カルマ)が三世にわたって、死後の世界にも影響をする。
普通ならば、物理面からとなるが、仏陀はあえて物理面から説かなかったわけは、人々が本心を失っているから、いくらこうだと言っても、理解できないからっだのでしょう。
法華経は、全ての教えを凝縮している経典ですから、法華経をしっかり自分の教えとして実践し、本心が理解できてくると、他のどのような経典も理解できる構造になっています。
私達目に見える周囲のものは、自身も含めて全て仮の世界です。 仮の世界なのに、すぐに損得で私たちは行動をしてしまいがちです。
俺が買ったのだから俺のものだといっても、土地や家や財産も、宝石も死ねば、また誰かの物に成る。 仮の物を神仏から預かっているに過ぎない。 要するに今の現実の世は私たちが、この世という世界に生じて、バーチャルの仮想空間に出でて修行するために生まれてきた。
法華経には、(衆生をあわれむが故に、この人間に生まれたり)と説かれております。
私達は、他の人を助ける為に、この人間に生まれてきています。
しかし、法華経には、失本心故(本心を失うが故に)とも説かれており、他の人を助けるという本来の心(本心)を失っている、とお釈迦様はおっしゃっておられます。 私達は本来、他の人を助け、救う為に生まれてきているはずが、いつの間にか、その大事な本心を失ってしまいました。 疲れた弱い者に寄り添うてあげる。 勇気が持てない人には、大丈夫と背中を支えてあげる。
大谷選手のすばらしさは、私達日本人だけでなく、世界もびっくりです。 2刀流の成績はもちろんですが、グランドにゴミが落ちていると、何気なく拾って、ポケットに入れる。 折れた相手側のバットも拾ってあげる。
相手チームの子供であっても、差別をしない同じ目線で接してあげる事が出来る。
こういう行為は,徳というポイントカードが仏様から頂ける。 電車に乗り、自分が疲れていても、子供を抱いている人や、高齢者に席を譲ってあげる。 こういう行為はもちろん、仮の世界であっても、徳というポイントがついてくる。 誰もが使う、あまりやりたがらない、トイレの清掃なんかにも徳というポイントがついてくる。 誰も見ていないところでの隠徳はさらに高得点がつく。 照れくさいのか電車で席を譲りたくてもできない人は、徳のポイントカードがもらえるチャンスを自ら捨てる行為になり、減点になる。 自分が楽で得な事は、人として最強である徳のカードを失う事に成る。
私達娑婆世界は何もかも修行の世界。 法華経は私達娑婆世界は、どのような事であっても、即是道場という修行の場ですよと教えています。 魂の向上。 穢れた心を磨く、大事な仮の世。 他の人から怒りの言葉を受けたら、反発するのではなく、自分も至らない事がありました。と他を許す心は高得点の徳のポイントになる。 お金を得るというお金を追い求めるとお金というのは、お足と言って、離れ逃げてゆく。
美味しい話の詐欺やマルチ商法にひっかかりやすくなる。 お足は徳を追いかけている。 だから得ではない徳を掴むことで他からあの人の行為は素晴らしいと信用され、お金には自然と苦労しない生き方が出来るようになる。
命に合掌
