仏教には末法と言って、身勝手な者が多くなり、正しい教えが伝わらないという教えがありますが、最終のようなアルマゲドンのようなものはありません。  この人とならばとお互いに納得した結婚であっても、、今は3分の1のカップルが離婚をするようです。  子どもが、いなければ、さほど問題になる事は少ないが、親子が分かれて暮らす。  この国では例え親同士が離婚しても戸籍はともかく親子の縁は切れないと考え、親が高齢になり、施設に入るにも、保証人がいないと難しいと聞きます。  中には親の身勝手で、子供に無理やり、塾や習い事を押し付ける親も多い。  子どもには最高の教育を受けて、東大に入り、大企業に就職し何不自由困らない生活を送って欲しいという願いがあるが、多くの人はこの路線から漏れる。  政治家の大臣でも東大が多いが、いう事なす事、ピントがずれている。  これはともかく、漏れた子供は家に引きこもったりすることが多く見受けらる。  親も子離れが出来ない、子供も親離れが出来ない。  男性も女性も結婚願望はあるが、実家から独立できないで親を頼る女性は現在の暮らしより、金銭的に貧しくなるのなら、結婚は遠のく。   

  

 

親は十人の子をば養えども 子は一人の母を養うことなし (日蓮聖人)

 

現代より経済的にはるかに貧しい鎌倉時代でも一人の母を養えない子もいた。  仏教は因縁果の法則です。

 

いくら因が有ろうと、縁がなければ、果という実りはありません。  例えばお米の種という因が有っても、砂漠では育たない、光や、水や温度多くのミネラルなどの縁があって程よく和合し初めて果という、稲穂が出来る。 そのうち一つでも備わっていなかったら、立派な稲穂にはならない。

日本という国は和の国です。  縄文時代から、穀物の種はあった。 大阪にある古墳時代の仁徳天皇の前方後円墳は平地にあります。

弥生時代に水田を人々が作り,掘られた泥を積み重ねたのが周囲に池をめぐらしたものでしょう。  人々は水田により、多くの穀物を手に入れ、生活が豊かになった、水田を造られた仁徳天皇を称えて跡地に祀られたことが古墳でしょう。  

 

仏教の因縁の法則は、親も子を選び、子も親を選んで、今生の巡り会いがあることを教えております。  縁は順縁ばかりではありません、時には前世からの逆縁をもって生じている人もいます。  イスラム教とキリスト教の争い、キリスト教であっても、前世はイスラム教徒だったかもわからない。  

 

 仏教を知らないときには、私は母親に対して産んでくれと頼んだ覚えはないなどと、泣かせました。 孝行したいときには親は亡くなった。  親も仏教を習っている人は少ない。  だから私は親を大事にすることなんて必要はない、ただし何が有っても親を粗末にはしないという思いで義母であっても接しています。  

 

現在の五薀仮和合が離散すると、乳から酪が生じるように、五薀仮和合の仮我が生じる。前の五薀仮和合と別のものであるが前の五薀仮和合より生じたものである。それ故に前の五薀仮和合の時の行為の報を受けるのであると、ナーガセーナ尊者が説明しています。

私たちの体は、多くの分子や原子で成り立っている。  親からの遺伝子なんてごく一部、ほとんどがバクテリヤやウイルスや細菌で成り立っている。  五薀仮和合の仮我であっても、私たちには善悪の行為の判断が出来ます。  

 

「雑阿含経」にも
「業と報と有るも、而も作者無し。此の陰滅しおわらば、異陰相続す」(国訳一切経阿含部1の257頁)
と有ると同じ説明です。

※ 無我・空であると観じる立場から輪廻転生を観る事が、仏教の教えである業の存続です。  死んで葬りされても、心意識はしばらくは、中有身となって、通常は49日までは、この世界にといわれているが、時には思いが強すぎると、何時までも成仏できないで、この世界に留まる。  

 

空だから無我だから輪廻転生は無いというような仏教学者はもっとしっかり勉強をして頂きたい。


道元禅師 「いまのよに、因果をしらず、業報をあきらめず、三世をしらず、善悪をわきまへざる邪見のともがらには群すべからず。世尊のしめしますがごときは、善悪の業つくりをはりぬれば、たとひ百千万劫をふというとも不亡なり。もし因縁にあえば、かならず感得す。・・これを不亡というなり、その報なきにはあらず」(正法眼蔵・三時業)です。

 

命に合掌