お釈迦様が説かれた十二縁起の外と内からみた、特に内縁起を自分自身の復習を兼ねて興味のある方にお話しします。

仏教は難しいが、お釈迦様が説かれた道理です。  

 

仏教では道理に反して物事が明るくない事を無明といいます。最初は1番目は無明です。 

 

私達人間は、無明(無知)のために、真理〈宇宙意識を含めた大自然の原理原則〉に合わない行動をしてきた、これが2番目の.『行』です。

ただ、この場合の『行』は、自分自身だけの行いだけにとどまらず、解釈においては、「人間の行為が永い間、魂にすり込んだ、過去の行い」を含んでいます。  今世だけではない事に注意してください。  魂が悪業により、傷がつき、光り輝かない。 この世で、辛くても、自ら他の為に善業を積む事で魂をこの世で磨く。  酒もうまいし、姉ちゃんもきれいな、あの世では、魂は磨けない。  

 

3番目は.『識』です。  ここでは大雑把に外縁起の 眼・耳・鼻・舌・身・意の六処に影響を及ぼす働きをもつことから、物事を知り分ける識別作用の働きをいいます。私達の識の中には、前世の業=行為が、輪廻した魂の潜在意識の中にあるといわれています。

 

前世に悪業をなした人は、現世の識も無明の識と言えます。このような人達は、過去世からの無明の識を背負ったままのスタートとなり、これに現世の業=行為が積み重なります。

 

 私達人間には、眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの器官があります。そのうち、体の部分である眼・耳・鼻・舌・身の五官を、普通感覚と呼び心の部分の「意)」を知覚と云います。

 

私たちの生活は、この普通感覚と知覚の働きが互いに関連することにより生活ができるわけで、『識)』で

 

4番目.『名識』、5.番目『六処』、6番目.『触』が、複雑に依存し合い、さまざまな人間の行動をさせているといわれています。

 

 このように心が発達するにつれて、7.番目は『受』が生じます。環境や価値観の違いから、ものの受け取り方や感じ方が違ってきます。主観と感受性の相違が生まれてきますが、これは過去の経験から生じてくると云われています。

 

 このように、名色・六処・触が複雑に関わり合って、好き、嫌いなどの苦楽の感情が生まれてくると、自然に8番目の.『愛』が起こります。ここでいう愛は、執着心と考えとらわれる心だと解釈してください。 仏教はキリスト教と違って、愛は全てではありません。 神道的には、悪を許さない良心。    執着心から離れられない愛ならば、せいぜい無償の愛にとどめるべき。

 

お釈迦様は、比喩品第三の中で、《諸苦の所因は貪欲これ本なり》と仰せです。《もろもろの苦の原因は、貪欲が本となっている》という意味です。貪欲と言うのは、自分の欲望にまかせて執著する心を指します。

 

 このように、好き・嫌いの苦楽に対する考え方が激しいほど、極端に相手に対しての愛・憎の感情が強くなります。執著心の強い人は『愛』を感じて、自分のものにしたいとか、放したくないと考えます。この心が9番目の.『取です。これは、愛憎の心から起こる強い取捨選択の心です。仏様が、前記と同じく法華経の比喩品第三の中で、《深く愛欲に著せる、此れ等を為っての故に苦諦を説きたもう》と説かれて、《悪行悪徳の原因を除かなければ、人間は幸せになれない》とハッキリ仰せです。

 

 『取』があると、人間はそれぞれの考えや主張がでてきます。それが10番目の.『有』です。有とは、自己中心の心がもたらす差別・区別の心です。好きなものには親しんで、気に入らないものや嫌いなものは排除するのが、人間世界の姿です。

 

 こうした差別心は、人間に対立や争いを起こします。争いや対立は苦しみを伴います。このように苦しむ人生を11番目の.『生と云います。

 そして目先のできごとで喜んだり、悲しんだり、苦しんだりして生きているうちに、12番目の.『老死』を迎えるということになります。

 

 以上が心の動きを中心とした十二因縁の説明です。十二因縁の教えを、私たちは自分の人生に生かし、自分自身のあり方を考えることも大事であるといわれます。  そうはいっても、生身の凡夫、簡単には実践できないが、少しでも煩悩を悟りの心に変える努力は必ず前に進む。  人として出現された、お釈迦様と私達凡夫は姿、形はかわらない、一番大事な事は、もっている心も変わらない。同じなんだよというのが、大乗仏教の妙法蓮華経です。  私たちの心は、時には地獄や、畜生、餓鬼の心もあれば、時には菩薩様や仏心というような、心まで備わっています。  お釈迦様にも、地獄や、餓鬼、畜生の心が具わっている。 備わっていなければ、私達人間を導くことはできません。

仏様は地獄や餓鬼の心を菩薩や仏の心に変えてしまう。 

 

現代科学に照らし合わせても 生理学者が臨床研究によって証明するところによりますと、精子と卵子が結合して、完全な赤ちゃんとして生まれるまでに、最初はアメーバーのようなものから、虫のようなもの、魚のようなもの、両棲類のようなものと、人類の進化とおなじような過程を経て成長して、ついに人間の形となるそうです。  ですから、この十二因縁の法則は、生物発生の経過の考察であると同時に、個人の受精から死に至るまでの実相を明らかにしたものです。

 

命に合掌