富士一跡門徒存知の事 は日蓮聖人の教えに照らして正しいか正しくないかは別にして日興上人の考えを現している書です。
一、聖人御在生の時弟子六人を定むる事、[弘安五年十月 日 之を定む]
一 日昭 弁阿闍梨
二 日朗 大国阿闍梨
三 日興 白蓮阿闍梨
四 日向 佐渡阿闍梨
五 日頂 伊予阿闍梨
六 日持 蓮華阿闍梨
此の六人の内五人と日興一人と和合せざる由緒条条の事。
から始まり、前に話した通り 天台宗とは違う、実長の謗法、神社参拝、一体仏はダメだという事を述べている。
そして日興上人は
一、聖人の御例に順じ日興六人の弟子を定むる事。
一 日目
二 日華
三 日秀 聖人に常随給仕す
四 日禅
五 日仙
六 日乗 聖人に値い奉らず。
ようするに、鎌倉時代の富士門流の書からは、日興一人が日蓮聖人から特別に別付嘱を受けたとは語っていない。
ようするに、
池上相承書 [別付嘱書]
釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当たるべきなり、背く在家出家どもの輩は非
法の衆たるべきなり。
= 弘安五年壬午十月十三日 武州池上
日蓮在御判
身延相承書 [総付嘱書]
日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば
富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり、就中我が門弟等此
の状を守るべきなり。
= 弘安五年壬午九月 日 日蓮在御判
血脈の次第 日蓮日興
大石寺や創価学会がいうような日興だけが特別の付属を受けたと後世の坊主のでっち上げ。
弘安五年壬午十月十三日の朝に宗祖は遷化された、臨終を前に門弟たちが見守っている、このような書が書けるのならすぐには死なない。 日興上人の遷化記録にも、主張されていない、 いずこで亡くなろうと墓を身延山にといわれた宗祖が富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなりとは。常識では考えられない。
一、本門寺を建つ可き在所の事。
五人一同に云く、彼の天台伝教は存生に之を用いらるるの間直に寺塔を立てたもう、所謂大唐の天台山本朝の
比叡山是なり而るに彼の本門寺に於ては先師何の国何の所とも之を定め置かれずと。
爰に日興云く、凡そ勝地を撰んで伽藍を建立するは仏法の通例なり、然れば駿河国富士山は是れ日本第一の名
山なり、最も此の砌に於て本門寺を建立すべき由奏聞し畢んぬ、仍つて広宣流布の時至り国主此の法門を用いら
るるの時は必ず富士山に立てらるべきなり。
この書を読むと、富士に本門寺を建てて、戒壇の地にしたかったのは、身延から離山された、日興上人です。
このような血脈書があったなら、凡そ勝地を撰んで伽藍を建立するは仏法の通例なりなんて言わない、日蓮聖人の命令だとする。
インターネットの無い時代には、大石寺の坊さんや、池田に騙されて、入信してしまった者がいる。 250万人くらいの人がいる。
創価学会員が蒔いた種は、自分たちで刈り取らねばならない。
一、五人一同に云く、本尊に於ては釈迦如来を崇め奉るべし、とて既に立てたり。随つて弟子檀那等の中にも造立供養の御書之れ在りと云云。而る間・盛に堂舎を造り、或は一躰を安置し、或は普賢・文殊を脇士とす。仍つて聖人御筆の本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り、又は堂舎の廊に之を置く。
