日蓮聖人云ク本地は寂光、地涌の大士上行菩薩六万恒河沙ノ上首なり、久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心ノ第一ノ弟子なり。
本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧祇劫、常在不滅、我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍成数の本仏なり。
法を云へば妙法蓮華経の涌出寿量以下の十四品、本極微妙、諸仏内証、八万聖教の肝心、一切諸仏の眼目たる南無妙法蓮華経なり、弘通を申せば後五百歳中末法一万年導師なり
日蓮聖人の教えを踏襲する人は、寿量品のお釈迦様の真理面の法身、智慧面の報身、慈悲面の応身ともに、無始無終で常在不滅。
しかも大事な事は、寿量本仏が本菩薩道をした寿命は未だに滅していない、現在でも続いているといわれる。 日蓮門下は日蓮聖人に続いて、一切衆生の本仏である久成の仏を証明するためにも、仏の因行の菩薩道を、世の中で実践する。
日朗上人御申状ニ云ク天台ノ沙門日朗謹テ言上、法華の道場を構え長日の勤行を致す云云。富山仰ニ云ク、大聖は法光寺禅門、西ノ御門の東郷入道屋形の跡に坊作ツて帰依せんとの給フ、諸宗の首を切り諸堂を焼キ払へ、念仏者等と相祈リせんとて山中え入リ給フぞかし、長日勤行何事ぞや、天台は迹化、上行は本化天地雲泥ノ相違なり、何ぞ地涌の遺弟と称しながらま誤つて天台沙門という
と言いながらも、
日朗上人去ル正中の頃富士山ニ入御あり日興上人と御一同あり、実に地涌千界の眷属上行菩薩なり、御弟子にてまします貴とむべし貴とむべし。
といわれている。 幕府の監視下で布教されていた、日昭上人や日郎上人と、富士で布教されていた日興上人と立場が違った。 宗祖三回忌を池上で日向が行ったことが問題になり、上足の日昭、日郎は咎められ、以後許可なく鎌倉から出る事を禁じられたといわれる。
日興上人は大聖御遷化の後身延山にて弘法を致し公家関東の奏聞をなして三カ年が間身延山に御住あり 宗祖遷化の後、18人態勢で輪番が取り決められたが三回忌ぐらいまでしか続かなかったようです。 それ以後日興上人が身延山で三年間弘法し離山した。 遷化の後六年間のうち、三年だという事。 離山の原因は、地頭でもあった、実長と折り合いが悪くなった。 特に神社参拝についての見解が日興上人と他の五老僧の見解が違った。 日興上人の離山にあたる思いをつづった、原殿御返事を考察すると、よくわかる。 この書は改めて解説したいと思う。
創価学会は、家庭に祀っていた神棚などを焼き捨てさせた。 日興上人は、北山本門寺は天照大神の垂迹堂を作られたとされる。
それとかつて、創価学会が大石寺に伝わる、板本尊に縁しないものは、ダメだと,騒ぎまくり、何も知らない信者さんは、入信してしまった。
さて熱原の法華宗二人は頚を切れ畢ぬ、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊遊ばすのみならず日興の弟子日秀日弁二人、上人号し給フ、大聖人の御弟子数百人僧俗斯の如く頚を切たる・・・
ここからは、創価学会が言われたような、、戒壇に掲げるような本尊は全く見えない。 板本尊の日付からいって、法華本門の戒壇を願って殉死された弥四郎国重、法華衆の人たちの供養の為に紙筆で日蓮聖人が書いたのではと思っている。 8月に殉死した弥四郎の49日に合わせて、書いた本尊があったが、後世の坊さんが、板に彫った可能性があると私は思っている。 弥四郎国重というのは小野寺新田の家系に出てくる。
板本尊は現在の科学で調べれば、いつ創作されたのかは、すぐわかるが、大石寺というのは、公開はしない。 インターネット時代になり、
次々と学会のでたらめが、明るみに出される。 学会の池田氏は表に出て説明はできない。 資金力をバックにマスコミや今や政権与党の議員まで排出する、問題があっても、追及される事はない、おかしいと思う会員がいても、多少言いたい事を言う人には言わせておけ、そのほうが、開かれた宗教になり、都合がよいからだと思われる。 今や学会も2世3世の時代、調べれば、わかる、 もともと創価学会は平和を目指す団体ではなかった。 牧口氏、戸田氏は国民に皇道思想を植え付けるための国民教育学会だった。戦時中は現人神天皇を祭り上げ、米英打倒の為に戦った。 拘置所に拘束されたのは、伊勢の神札を受け取らない、不敬罪からです。 現人神がいるのに、神札を祀るのは2元的な信仰になるのを嫌った。
命に合掌
