菩提樹下で成道を果たした後、釈尊は自らが到達した悟りの内容が深遠で他の人々に容易に理解できるものではないことに気づき、悟りの内容やそこへの道を人々に説き示すことに躊躇が生じたと仏典は伝えています。そこで、仏典は梵天を登場させて、説法を促す梵天と説法を躊躇する釈尊との対話という物語にして釈尊の説法決意への軌跡を描き出します(梵天勧請)。
ここでいう不死とは、生物学的な意味ではなく、釈尊を仏たらしめる時空を超えた悟りの境地を意味します。「耳ある者たち」に、生死流転の苦しみを脱し、寂静なる境地へと至る門が開かれた、つまり、その者たちに釈尊自身が生死流転の苦しみを乗り越えたその道を説き示すのが法華経
生物学的な意味だと生じて来たものは、必ず滅する。 体に良いとされる、サプリメントや薬を飲もうと、長生きしても120歳くらいです。 長生したからって、老死の苦しみがなくなるわけではない。 そのような事に執着しても、老死の解決にはならない。 南伝仏教や戒律を守る修行をいくらしても、仏陀の時空を超えた歓喜の法門の入り口も難しいと思われる。
今を正しく生きる事は、大切な事だが、大事な人生、老死の事をしっかり考える事が、生きるという事。
浄土宗は一応中陰を認める。 真宗は諸法無我だからと言って、ほとんどの僧侶は認めない。
禅宗も霊を信じるのは半分ぐらいの僧侶らしい。 真言宗、天台宗、日蓮宗は殆どの僧侶が認める。 もちろん、空も無我も取り入れている。 空、仮、中 の三諦が基本
『感興のことば』
「生きとし生ける者どもは死ぬであろう。生命は終には死に至る。かれらは、つくった業の如何にしたがっておもむき(それぞれ)善と悪との報いを受けるであろう。」
「若し、善男子善女人の能く身、口、意業を修治する有らん。捨命の時、親族有りて其の尸骸を取りて或いは火を以て焼き、或いは大水に投じ、或いは塚間に棄て、狐狼禽獣競うて共に食啖すと雖も、然も心意識即ち善道に生ず。而してこの心法、実は去来無く亦至る所無し。直ちに是れ前後相似相続して相貌異ならず。是の如きの言、即ち是れ如来秘密の教なり。」 「涅槃経」
心意識という言葉を使っているが、死後に業を背負った霊である魂が、それぞれの道に生じる。 自己の今世による行為が未来性にもつながる。
いくら一瞬、一瞬の映画のフイルムであろうと、不連続性の連続を認めなければ、不死の門に立つことはない。
命に合掌
