あまり知られていないようですが、スリランカにも大乗仏教があったが、広まる事はなかった。 根拠はスリランカにも古い時代の観世音菩薩の石仏があります。 日本には漢訳ですがスッタニパータ、アーガマといわれる経典だけでなく、大乗仏教もたくさん入り、その中から大乗仏教が繁栄した唯一の国です。 インドでは仏教の釈尊もヒンズー教の聖者の一人と取り入れられ、結局仏教は崩壊してしまった。 植民地にされていた、スリランカは宣教師などによって、研究され返された。
タイの仏教も一時消滅したが、スリランカから新たに取り入れられた。 仏教を修行して覚るという事が、仏教だと思う人々と、すべての人々が仏教の教えで幸せになるという大乗仏教の考えが日本には受け入れやすかった。 法華経を中心にした仏教を取り入れたのは、聖徳大使です。 聖徳大使は観音様の姿を変えた化身だとか言われます。 天台大師は薬王菩薩とか法然さんは勢至菩薩だとか言われます。 チベットのダライ・ラマは観音様の化身とか言われます。 姿を変えて現れる。
大乗仏教の教えをまとめた経に大集経という教えがあります。仏陀が入滅されてから仏教はどうなってゆくか?
大集経には「我が滅後に於て五百年の中は解脱堅固、次の五百年は禅定堅固、次の五百年は読誦多聞堅固、次の五百年は多造塔寺堅固、次の五百年は我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」とある。つまり最後の500年では仏教徒の間で論争が闘わされ、正しい教えが隠没してしまう、とある。
どのような正しい教えでも、時は移り変わる、仏法は次第に衰え、やがて滅びる、とする考え方は、初期の経や律にすでに含まれている。初期経典では正法はもともと千年続くはずだったのが、女人の出家が許されたために正法が五百年になってしまったという記述があります。 お釈迦様もこのような事を予言していたのかもしれません。 比叡山の伝教最澄さんは、末法近しといわれ、鎌倉時代になると法然、親鸞、日蓮も強く影響された。 道元は仏陀の時代でも悪を働くものがいた。 末法だからと言って修行を怠るべきでないと修行をしないことを批判した。
日蓮は涅槃経に出てくる仏陀の遺言を重んじた。
「法によって、人によらざれ」という釈尊の遺言があり、釈尊滅後その言葉を守るべく、釈尊のごとく衆生がよりどころとする四種類の菩薩 四衣の菩薩 があらわれると遺言されています。 四種類とは、第一に煩悩を完全に消滅させた菩薩。第二に煩悩をほとんど消滅させた菩薩。第三に煩悩は消滅してないが、煩悩を出ないようにコントロールできる菩薩。第四に煩悩をなかなかコントロールできない菩薩。日蓮は比叡山12年間の研鑽で、いったいその菩薩達は誰なのかと疑問に思われたのでした。もちろん一番目の菩薩は、釈尊亡き後五百年間の小乗仏教盛んな時代の菩薩、すなわち釈尊の十大弟子である迦葉菩薩・阿難菩薩。第二番目の菩薩は、その後の500年間大乗仏教が興隆した印度の世親菩薩・龍樹菩薩。そして、末法時代に突入するまでの1000年は、薬王菩薩や観音菩薩の垂迹として崇められた中国隋の時代の天台大師・平安時代の比叡山伝教大師最澄が第三番目の菩薩であるのは周知の通りだと。それならば、釈尊滅後2001年から未来永劫までの末法時代は第四番目の煩悩具足の菩薩が出現するはずではないか、と思われたのでした。
煩悩具足の菩薩とはどのような菩薩か?末法に釈尊真実の法を広める者の条件は何か。「法によって、人によらざれ」とうことは、法というものを介在させることによってのみ釈尊から相承が受けられると日蓮上人は考えられたのでした。そして、その法とは釈尊出世の本懐である『妙法蓮華経』であり、その第十六章の「使いを遣(つか)わせて還(かえ)りて告ぐ」の使いこそ第四番目の煩悩具足の菩薩であると確信されたのでした。すなわち経文に書かれてある地面から涌き出た上行菩薩であると。その菩薩は末法の時代に、煩悩具足の人間と現じて生まれる。 しかしながらその菩薩の条件として、「ガンジス川の砂の数ほどの経典を読むより、この法華経を広めることの方が難しい。」「宇宙の頂上を手にとって投げるよりも、仏の滅後にこの経を説くことの方が難しいのである。」と法華経に書かれてあります。つまり、石を投げられたり、棒で打たれたり、また流罪や死罪に及ぶとも、この法華経を広めるためには種々の難をしのぐ人である。「我、身命を愛せず、ただ無上道を惜しむ」また「身は軽くても法の方が重いから、死ぬ身となっても法を弘めなければならない」という命がけの伝道者でなければなりません。
今末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし。但南無妙法蓮華経なるべし。かう申し出だして候も、わたくしの計(はからい)にはあらず。釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御計なり
日蓮は今末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし。但南無妙法蓮華経なるべしだから、法華経なんて役に立たない釈尊より日蓮の方が偉い去年の暦だというようなアホ新興宗教も出てくる。 日蓮が白法隠没する法華経とは、高度な瞑想などの止観で悟る法華経の事を言われている。 日蓮が広める法華経は悟る法華経でなく、難解難入の法華経でも 智慧第一といわれる舎利弗さんでも、法華経を信じて仏智を得る事ができた、以信代慧の教えです。 日蓮の判断ではなく、すべて経典からの判断です。 法華経の本門には、上行菩薩を先頭に数えきれないほどの地涌の菩薩が登場してくる。 経を通して釈尊と仏弟子日蓮は直結する。
命に合掌
