親鸞さんは法然さんに騙され地獄に落ちても悔いはないというようなことを言われたが、私が感じるのは、教えが相当違うようです。

浄土宗の私の兄の葬儀は阿弥陀の国に産まれてこれから修行するような事を言われ、施餓鬼供養したり、追善供養したり、塔婆供養もする。 

浄土真宗は亡くなられた霊も否定するから 施餓鬼供養したり、塔婆供養はしない。 要するに亡くなられた人も、残されたものも供に養うという概念はないようで、法事は残された遺族の為という考え方のようです。

 

念じれば、阿弥陀浄土に往生する。 菊谷という人の浄土真宗の教えを聞いていたら、無我だから、霊なんていないと否定する。  良い事も話されているが、 、無知としか言いようがない。 無我は主体となる常住不変のものはないという事。 空、無我は何もないという事ではない。 しっかり経典を読んで欲しい。  霊魂の有無に関しては釈尊は無記とし、その代わり過去世、現世、未来世の業の存続の因果応報を説かれた。  バラモンが説かれていた、主体性がある常住不変のような霊魂は非我として否定された。 死んだら戒名をつけるようだが、お釈迦様の弟子の意味の釈という字を使う。

お釈迦様の弟子なら、他力だなんて言わないで、一番大事にする経の無量寿経に書いてある通り完璧にできなくても、、素直に菩薩道を目指して欲しい。 迷いの者は阿弥陀の浄土にはいないようです。  経を素直に読まないで、僧侶が勝手に解釈する他力信心   

 

南無阿弥陀仏というのは、阿弥陀仏に私はすべてを仏様に投げ出します。自身の心からですが、頂いた、頂いた.願ったり祈ったりは浄土真宗はしないという。  念じるだって、阿弥陀仏にすべてをお任せしますというような、自身の心のはず。 


真宗の四弘誓願

真宗(浄土真宗)ではこう読みます。

衆生無辺誓願度(衆生は無辺なれども 誓ってどせんことを願う)

煩悩無数誓願断(または煩悩無量誓願断)(煩悩は無数(または無量)なれども 誓ってだんぜんことを願う)

法門無尽誓願学(法門は無尽なれども 誓ってまなばんことを願う)

仏道無上誓願成(または仏道無上誓願証)(仏道は無上なれども 誓ってじょうぜん(またはしょうせん)ことを願う)

 

この願いも他力信仰者自身の心からの願いではないというのか?    経典の教えから離れている浄土真宗の教義は間違いなく人教の謗法罪に当たる。  親鸞を後世の弟子坊主が担ぎ出したか、親鸞の教えかはわからないが、完全に支離滅裂の教えになっている。

 

徳川家300年の歴史で檀家制度になり、法論が出来なくなり、僧は釈迦の教えを伝える役目なのに、僧らしきものが教えを創作して騒ぐ  浄土真宗の寺が一番多いと聞く。  霊を信じないのだから、神々も信じる事はない。  いくら信仰の自由だとはいえ、これでは、国を守護する諸天善神も守れない。  釈尊の教えが捻じ曲げられる、まさに末法。

 

命に合掌