コロナ禍で多くの事を考える時間が持てる人も多くなったと思われる。私は原始仏教から入る事も大切だと思っているが、阿羅漢になって、仏陀の時間と空間を超えての究極の悟りを得る事は多くの情報の中では難しいと思います。

 

諸行無常 :この世の中で常であるものはなにもなく絶えず変化している

.一切皆苦 :一切は皆苦であると知ること
諸法無我 :本来、我(われ)となる主体はない

上記が仏陀の説かれた三法印ですがさらに下記の涅槃寂静をいれて四法印とされる

涅槃寂静 :一切のとらわれやこだわりを離れた姿


仏教を最初に勉強される方は、中村元 先生のいう事を頭から信じる人が多いと思うが、先生は下記のように言われる。


「原始仏教では、在俗信者に善行をおこなわせるために、因果応報の理をもって説いた。正しい行いををした在家の人は、天の世界に生まれる。それに反して悪業を行った者は、地獄に堕するという。こういう輪廻説ないし応報説が無我説と矛盾し、一致しがたいものであるということは、しばしば学者に指摘されているが、原始仏教はかならずしも輪廻および業の観念を排斥せず、むしろ世人の宗教的通念としていちおう許容したらしい。
では、なにゆえに許容したのであるか、というと、『来世を信じない人は、悪を行う』からである。すなわち、世人に善を行わせるために方便の教えとして説いているのである。」(原始仏教の思想)
と論じています。

 

この先生は諸法無我だから因果応報はないと決めつけているが、もうすこし、経典に従って、素直に読まないと、

仏陀の悟りがなんであったかもわからなくなる。 この先生の考えたをするような、仏教学者が多く仏教を難しくしている。

 

無我とは、主体的な自己として存在するものはないという事で、互いの関係の中で生かされ生起しているという事です。 自己は自分のものではない、私たちが頭の中で考える自己は自我です。 真我を求めて禅では無~無座って真我という悟りを得ようとする。  吾の心を知るのが悟り。

 

 天台では空中仮を説きますが、

私たちは過去世からの多くの縁によって、五陰和合・因縁所成の仮我の存在ですが、仮我であっても意識活動をもっています。  当然苦から離れる行為が未来世に影響する。

 

仏陀は生老病死の解決をされたのが、仏教です。 死んだらすべて無になるとかいう事は言われていません。

三世業報論を無視したら、仏教ではなくなる。  翻訳の先生でも、原始仏教も方便というような先生ではもう少し天眼の修行をされてから、主張されて頂きたい 

 

命に合掌