私たちは仏に成る素質(仏性)は備わっているが、どうしても、自分の存在を確認するために他と比べてしまい、それがもとで、下とみれば、いじめたり、上とみれば、自分を卑下して、嫉妬心を抱く。

 

いじめも 嫉妬心も自分自身に劣等感の心があるからです。 

 親に劣等感があると、子供が、やりたくないのに、お前の為だといって、無理に塾に通わせ、その弊害も見受けられる事がある。

 

法華経はたとえ話で、衆生の救済を導く。

 

長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品)

ある長者の子供が幼い時に家出した。彼は50年の間、他国を流浪して困窮したあげく、父の邸宅とは知らず門前にたどりついた。父親は偶然見たその窮子が息子だと確信し、召使いに連れてくるよう命じたが、何も知らない息子は捕まえられるのが嫌で逃げてしまう。長者は一計を案じ、召使いにみすぼらしい格好をさせて「いい仕事があるから一緒にやらないか」と誘うよう命じ、ついに邸宅に連れ戻した。そしてその窮子を掃除夫として雇い、最初に一番汚い仕事を任せた。長者自身も立派な着物を脱いで身なりを低くして窮子と共に汗を流した。窮子である息子も熱心に仕事をこなした。やがて20年経ち臨終を前にした長者は、窮子に財産の管理を任せ、実の子であることを明かした。この物語の長者とはお釈迦様で、窮子とは衆生であり、仏の様々な化導によって、一切の衆生はみな仏の子であることを自覚し、成仏することができるということを表している。
 

インドでは階級制度がはびこっていて、自ら卑下する者が多かったのでしょう。  仏教から離れ、お釈迦様の家から家出してしまう子供は流浪し困窮し劣等感を抱いてしまう。  

 

南無妙法蓮華経

 

命に合掌