親鸞さんは比叡山で真剣に修行したのですから、法華経を主体に頑張れられたと思うが、美しい女性を見たことから、修行しても心は女性への思いが立ちきれない。  坊さんだから、当然煩悩を滅したいと強く願っても、願えば、願うほど苦悩を経験する。 逢えない時間が愛育てるのさ♪  持って生まれている色情の心と 清浄な心でなければならないという心の葛藤があるから、法華経は見せられるという事です。  

 

不倫をしてはいけないという良心があり、 苦しいため息があったからこそ、洗い流せることが出来た。 悪心と良心の葛藤。  煩悩即菩提 煩悩があるから、人は前進できるが、煩悩のまま、突き進むと、さらに心魂に傷がつき、あの世に行っても光り輝く魂にはなれない。  親鸞さんは煩悩を完全に消滅したいと苦しまれた。 お釈迦様の時代のように、完全に煩悩を滅した僧侶はいません。  煩悩を出さないようにコントロールも 末法に生じた私たちも無理でしょう。 煩悩を持ったまま、菩提心を磨く。  

 

 

稲盛 和夫

京セラの創業者で、臨済宗妙心寺で修行された方です。 

 

私たちは、自分の意志とは無関係に人生を生き、運命と因果の法則が織りなす人生の布を伝いながら、今日まで生きています。その人生において、自分自身の魂を磨き、美しい心、美しい魂を作り上げていくことが、人生の目的ではないかと思うのです。

心を磨くとは、魂を磨くことです。言葉を換えれば、人格を高めるということです。人間性を豊かにし、美しい人間性をつくっていくということです。死にゆくとき、生まれたときよりも少しでもましな美しい魂に、またやさしい思いやりに満ちた美しい心を持った魂にしていたいと思います。

そのように心を磨こうと思っても、実際にはなかなかうまくいかないのが人間です。しかし私は、人格を高めていこう、自分の心、魂を立派なものにしていこうと、繰り返し繰り返し努力をしていく、その行為そのものが尊いのではないかと思っています。

 

素晴らしいです。  思い通りにならない、娑婆世界だから、修行が出来る。  

 

命に合掌