とは日蓮聖人が当時の禅宗批判に用いられた有名な言葉ですが、根拠は「涅槃経」の邪正品の一説にあります。 「若有不順仏所説者、当知是人是魔眷属」. 「仏の所説に随わざる者有らば、当に知るべし、是れ魔の眷属なり
座禅を批判しているのではありません。中国禅宗が 自分たちで経以外の教えを作って、教外別伝として、答えのない、問答をああでもない、こうでもないと作って遊んでいる。
曹洞宗の祖である道元も 自ら示した、正法眼藏の仏教の巻の中で 当時の禅宗が用いる「教外別伝」説を日蓮と同じように魔として批判していることに、注意してください。
律国賊とは、鎌倉幕府に取り入って、持戒を装って「生き仏」「国宝」と崇められていた良観(忍性)や、戒律の復興をうたいながら、一方で幕府に取り入って、公共事業などの利権を掌握して、私腹を肥やす者たちに国宝どころか、国賊だと言われたことです。 戒律そのものに対して、日蓮は批判をしていません。
例えば、幕府に取り入り所領を頂き、所領の一部に、道路を作り通行税を人々から取り、橋や道路整備につかう。 仏法を知らない人々は、通行が便利になり生き仏様となるわけです。
特別悪い事とも思わないが、本来ならば、こうした事業は僧侶の仕事ではなく、幕府の仕事。 お釈迦様時代の僧侶は、自ら阿羅漢になる事を求め、戒律は厳しく、生活は清く貧しくすべて、托鉢の生活だった。
命に合掌
