お釈迦様は、一切皆苦なのに、

 

スリランカに伝わる 南伝仏教の 『ブッダ最後の旅』には

 


自らをよりどころとして

     他人をよろどころとせず

     法をよりどころとして

     他のものをよりどころとせずにあれ

 

いわゆる自燈明、法燈明  を説かれた、そういう事からいうと、仏教には他力で良いという教えは浄土経典にはないと思う。

 

ヴァイシャーリーは楽しい

 ウデーナ霊樹は楽しい

 この世界は美しいものだし

  人間のいのちは甘美なものだ

 

悟られたお釈迦様から見れば、私たちの娑婆世界は嫌味嫌うような場所ではなく、浄土だという事でしょう。

 

また仏陀最後の旅には虚空の話が出てきます。 

 

そのとき沙羅双樹が、時ならぬのに花が咲き、満開となった。それらの花は、修行完成者(タターガタ,如来)に供養するために、修行完成者の体にふりかかり、降り注ぎ、散り注いだ。・・・また天のマンダーラヴァ華(デイコ)は虚空から降って来て、修行完成者に供養するために、修行完成者の体にふりかかり、降り注ぎ、散り注いだ。・・・」 (中村元訳)

 

南伝仏教は虚空の話はここで終わってしまうが,大乗仏教経典は虚空の話が普通です。  法華経も虚空の会座の様子を示しています。

 

『法華経』序品に、釈尊が悟りを開いたとき、「天は曼陀羅華・摩訶(マカ)曼陀羅華・曼殊沙華(マンジュシャゲ)・摩訶曼殊沙華を雨(ふ)らして、仏の上及び諸々の大衆の上に散じた」と出ています。

 

 さらに法華経の一番大切な教えの如来寿量品第十六にも

 私の境界から見ればそのありのままが浄土であり、安穏な世界であり、常に天人で満ちあふれ、美しい花園の中の御殿は、皆種々の宝をもって飾っていて、 

 宝の樹木は華や実をいっぱいにつけた、衆生が楽しく遊ぶところである。天人たちは天の鼓を打っていろいろの音楽を奏し、 

 美しい白蓮の華を雨のように降らせて、仏や大勢の人々の上にふりかける。

 

命に合掌