原始仏典のスッタニパータから  

「何者の業も滅びる事はない。それは必ず戻ってきて業を作った本人がその報いを受ける。愚者は罪を犯して来世にあってはその身に苦しみを受ける。地獄に落ちた者は鉄の串を突き刺される所に至り、鋭い刃のある鉄の槍に近づく。また灼熱した鉄丸のような食物を食わされるが、それは昔作った業にふさわしい当然な事である。地獄の獄卒どもは「捕らえよ」「打て」などといって誰もやさしい言葉をかけることなく、温顔をもってむかってくることなく、頼りになってくれない。地獄に落ちた者どもは敷き拡げられた炭火の上に臥し、あまねく燃え盛る火炎の中に入る。またそこで地獄の獄卒どもは鉄の縄をもって地獄に落ちた者どもをからめとり鉄槌をもって打つ。さらに真の暗黒である闇に至るがその闇は霧のように広がっている。また次に地獄に落ちた者どもは火炎あまねく燃え盛っている銅製の釜に入る。火の燃え盛るそれらの釜の中で永い間煮られて浮き沈みする。(中略)。罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は実に悲惨である。だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなし、おろそかにしてはならない。」

 

科学で証明されたことしか信じない現代人には、目に見えない世界の事は、方便的な事としか思えない人が多いと思う。 しかし彼らは、お金儲けでこうしたことを言われているわけではない。 

 

A・スマナサーラ長老の見解。

インドの聖者は超能力で過去背世を知った

 しかし、古代インドの世界になると少々事情が変わります。インドではこころを集中して、時空関係を超えてさまざまなものを認識できる能力を獲得した人が大勢いました。・・・ インドの社会では宗教に励む人が精神的な修行をして、認識の範囲をものすごく広げてみたのです。居ながらにしてその場所にないものを見たり聞いたりする能力を開発して、認識の次元を伸ばしたのです。現代風に言えば超能力です。普通の人間の能力を超越したのです。それは修行によって、訓練によって得たものです。そういう人々が初めて、死後の世界、というよりは過去の世界について語り始めた。それはほとんど自分白身の過去のことなのです。「自分は過去世でこんなふうに生きていました」と。そこで過去世があるのだから、推測によって未来世もあるだろうと言い出したのです。
過去世のビジョンは妄想なのか
 このような理由で、古代インドの宗教家が語った死後の世界は、単に死への恐怖から考えついた妄想と簡単に切り捨てることはてきないのです。彼らは宗教家でしたし、現代の宗教家のように商売のために宗教を始めた人々でもなかったのです。インドには、人間は年をとったら財産を捨てて、家族も捨てて、真理を求めて歩き回るのが理想であるとする精神的な文化がありました。だから弟子をたくさん集めるためでもなく、有名になるためでもなく、ただ真理・真実を知りたくて、財産も家族も全部捨てて歩いたのです。あっちこっちを歩いていろんな修行法を試して、超越した能力を得た人もいたし、得られなかった人もたくさんいました。そういう人々がわざわざ嘘を言って私たちをダマしたというのは、ちょっと理屈には合わないのです。・・・