禅宗でも法華経は読みますが、日蓮系では御題目と祖師のみが強烈に前に出てお釈迦様さえかすんでしまっているようですが?・・・
日蓮聖人は一切経を読まれて、当時の人々がお釈迦様 をないがしろにして、この娑婆世界に縁のない阿弥陀佛を拝んだり、 大日如来を拝んだりしていたのを、教主釈尊と一切経の中心である法 華経にむしろ戻そうとされました。
「教主釈尊は娑婆世界の衆生には主・師・親の三徳を備えて大恩の仏 にておわす。」
「釈迦佛は我等が為には主也、師也、親也。一人してすくい護ると 説き給へり。」
と繰り返しお釈迦様を敬われたお言葉が御遺文にでています。 日蓮聖人の仰ることに随えばお釈迦様中心になるはずです。もし日蓮 聖人だけしか敬ってないとすると間違っているということになりま す。でも身近に教えてくれるお祖師様を敬うのはどの宗派にも見られ る現象のようです。
お釈迦様は「法に依って人に依らざれ」と言われました。
「わたしの肉体を見る者がわたしを見るのではなく、わたしの教えを 知る者こそわたしを見る。わたしの亡き後は、わたしの説き遺した法 がおまえたちの師である。この法を保ち続けてわたしに仕えるように するがよい。」
「わたしの亡き後は、わたしの説き遺した法がおまえたちの師であ る」の通り、お題目は妙法蓮華経=法華経に帰依しているのです。つ まり、法を表にし、佛宝・法宝・僧宝の三宝を一体として、信仰の中 心にしています。
観音様は身近で救って下さる感じがしてとても有り難いのですが、体系的に見ると、久遠実成の釈迦牟尼佛のお弟子さんですので、久遠実成の釈迦牟尼佛を中心にしていると、全ての有り難い菩薩様も統一的に称名していることになります。観音経(法華経第25品)の長行にありますが、無尽意菩薩が観音菩薩にプレゼントした首飾りを二つに分けてお釈迦様と多宝佛塔に差し上げられたことに大きな意味があります。
道元禅師のお言葉にも、修証義の一番最後の第三十一節に、
「いわゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり、釈迦牟尼仏これ即心是仏なり。 過去現在未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏となるなり。 これ即心是仏なり。即心是仏というは誰というぞと審細に参究すべ し。正に仏恩を報ずるにてあらん。」
とあります。
そこで何故寿量品が中心で大切かということですが、釈尊の久遠実成 (始まりもない遠い昔からのお悟り)ということ、つまり、本覚(始ま りもない最初から覚っていた)であり、本佛(始まりもない昔よ り仏であった)であることが明かされているからです。
そしてなぜ有り難いかですが、
「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身(毎に自らこの念 を為す。何を以ってか衆生をして無上道に入り速やかに仏身を成就す ることを得せしめんと。)」(法華経)
と三世に亘り私達を大慈大悲で導いて下さっているからです。
日蓮聖人の教えは、禅宗さんの指摘通りです。 残念ながら、お題目を唱える新興宗教の中には、本師、本仏である教主釈尊を脱佛にして日蓮聖人を本仏にして、しまうところが、あります。 日蓮聖人の教えに反して魔が生じていても、教祖の美味しい話に流されてしまう。
久遠の大昔から教主釈尊の弟子、今も弟子、未来も弟子。
此の時地涌の菩薩始めて世に出現し但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ「因謗堕悪必因得益」とは是なり、我が弟子之を惟え地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり
末法の世に生じた大導師日蓮聖人が地涌の菩薩の上首である上行菩薩の境地に立たれて、教主釈尊の教法を広めている。
南無妙法蓮華経
合掌
