本化の菩薩は蓮華の水に在るが如し
科学者のアインシュタインは賢治の虚空を理解していた。 おとぎ話にか、見られない妙法蓮華経は、仏陀の時空を超えた悟りで、末法の世に、本仏釈迦牟尼仏の本弟子の四菩薩を先頭に、娑婆世界の地から数えきれないほどの菩薩が生じてくることが予証されている大乗最上の経典です。
法華経 本門の正宗分は、釈尊と弥勒菩薩の問答形式によって進められますが、「涌出品」の後半「爾の時に釈迦牟尼仏、弥勒菩薩に告げたまはく」より、次の「如来寿量品」を中心として「分別功徳品」の前半、十九行の偈「以て無上の心を助く」までが本門の正宗分で、これを一品二半と呼び、法華経の最も重要な教義であります。
前述の弥勒菩薩の問いに対して、釈尊がお答えになる法門が如何に重大であるかということは、「汝等一心に精進の鎧(よろい)を被(き)、堅固の意を発すべし。如来今、諸仏の智慧、諸仏の自在神通の力、諸仏の獅子奮迅の力、諸仏の威猛大勢の力を顕発し、宣示せんと欲す。」と申されたことばでも解ります。そして、「我れ今、実語を説く。汝等一心に信ぜよ。弥勒よ疑うことなかれ。この地涌の菩薩は、自分がこの娑婆世界に於て、久遠に成道してより以来、教化した弟子である。」と明言されたのであります。
その時、弥勒菩薩を初め迹化の菩薩達は、釈尊のおことばに疑惑を生じました。
――世尊が成道されてから、まだ四十年余りしか経っていないのに、何時の間にこのように無数の大菩薩達を教化なさったのだろうか。――
確かに信じ難いことであります。釈尊が太子の位を捨てて城を出られてから十二年の後、伽耶城の近くの菩提樹下に坐して覚りを得られ、それ以後今日まで、四十余年が過ぎたのみであります。喩えば、二十五歳の青年が百歳になる老人達を我が子と言い、老人達もまた青年を我が父と呼んだとしても、誰も信ずることはできません。迹化の菩薩達から見ると、この大菩薩達は志念堅固で、大神通力を持ち、忍辱心決定し、端正で威徳あり、どこから見ても立派な菩薩達でありました。この事をお経文は、「世間の法に染まざること蓮華の水に在るが如き人々」と表現しています。そして、「私達は世尊のおことばを信じて疑いませんが、行の浅い人や仏滅後の人々のために、納得のいくご説明をお願い致します。」と申し上げたところで「涌出品」は終り、それに対する釈尊のお答えは、次の「如来寿量品」に譲ります。
