人の脳の働きは思考という自我という意識を発生する。 そのため、禅宗さんに多く見られるのが、座禅をして、出る息吐く息に精神を集中し自身に内在する真我という心の魂と直結するのが、無我の境地となる。 よほどの人なら可能かもしれないが、時計の音や、遠くの車の音、虫の声、起きているときに思考を停止する訓練は大変な行だが、無意識になれば、心という魂に直結できるかも、他には般若心経などのお経をたくさん読むとか、題目を一心不乱に唱えるとか、チベット僧が一日中実践する五体倒地なども、思考停止の行に近いのかしれない。 いくら自身の心が無我の境地になっても、、しょせん人間、心は絶えず変化するし、悪も知らず知らずしてしまう。
肉体を持った今世が終わり、霊体の魂の行き先は、閻魔様の善悪の裁判にかけられるといわれる。 ならば肉体を持って、この世で閻魔様の獄卒の鬼を自身の心の中に住んでいただき、自身の良心に従って、善悪の行為の判断をする。
鬼は外ではなく、福も鬼も内、 仏教宗派の中では、鬼は外を言わない宗派が多い。 浄土宗では、地獄の絵図でひも解く教えがある。 お天道さんが見てるよ。 のの様が見てるよ。
汚い言葉を吐けば、魂が汚れ傷つく、周囲の者(敵対してくる者)であっても優しい笑顔、まなざしで、接すれば、傷ついた魂が磨かれる、 介護は魂を磨くチャンスが多い。
