輪廻のない世界へ

●仏教も「輪廻転生」を受けついでいます。死後、人は死後の旅「中有(ちゅうゆう)・中陰(ちゅういん)」(死んでからつぎに生まれ変わるまでの中間存在:49日間)をへて、地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人(じん)・天(てん)の六つの世界、六道(りくどう)にわけられ、生まれ変わります。

●どの世界に生まれ変わるかは、生前のおこないが善行か悪行かによってきまります。これを「因果応報(いんがおうほう)」といいます。この「因果応報」の鎖(くさり)をたちきるには、「輪廻のない世界=浄土(じょうど)」にいくしかありません。この方法をおしえるのが仏教です。

●ただし、この教えは、仏教を説くまえの道徳的方便(ほうべん)または、仏教の大衆化をはかるもので、死にたいする浅い考えだといわれています。

輪廻転生と無我の矛盾 この霊が存在しないとの考えは、輪廻転生からの解脱の方法を「梵我一如」、アートマン(我)を形成する霊魂と絶対真理のブラフマン(梵)と一体化する知力にもとめたヒンドゥー教とは、するどく対立します。葬儀においても、火葬を神聖な儀式ととらえるヒンドゥー教にたいして、仏教は葬式や法事といった儀式とは、特別な関係はありませんでした。むしろ、釈迦は出家修行者は葬儀にかかわるなとたしなめています。ヒンドゥー教にとっては、仏教は来世を信じない異端の教えでした。

 

こういうブログが僧侶でもいるのかと疑ってしまう。  迷いの世界である六道(五道)輪廻からの解脱が仏教です。 原始経典にたくさん出てくる業報論そして数々の経典は仏陀の教えを踏襲している。  

 

無我といわれても、それまでの仏教以前のバラモン教がとく、不変の霊魂は否定しましたが、霊魂の有無については仏陀は無記として語りませんでした。  霊魂が有るというものがいれば、必ず無いというものが出てつまらない堂々巡りになってしまう事を戒めた。

 

 心も縁により変化している。    当時のバラモン教の教えである、変化しないアートマン霊魂を仏陀は批判した。  

 

霊魂の有無の代わりに業報論を説いた。     仏陀は弟子たちに迷いの輪廻からの解脱の行為の修行を求めた。  葬式仏教は改めないといけない、 仏教は人として生じている今をよりよく人らしく生きる智慧の教え。  この世では救われないから、あきらめ、あの世で仏様をひたすら願い死んだら連れて行ってもらおうといういう教えではない。 

 

 神道でもキリスト教でもイスラムでも、後世をまるっきり否定する教えは見えない。 信者のみ救われるというような、宗教にとって、都合の良い教えが多いが、後世をまるっきり否定する教えは見えない。

 

 

 信教の自由だから、何を言っても良いが、自分が魂について理解できないからといって、仏陀の教えそのものを都合で変えて欲しくはない。

 

● 無我・空であると観じる立場から輪廻転生を観る点が、当時のいわゆる佛教外の思想の輪廻転生思想と異なるところ