宗祖の教えは一念三千のなかでも特に十界互具が中心になります。

【私達苦九界の中に仏界が具わっている】ことと、【仏界の中に九界が具わっている】このことが大切です。仏界と九界との互具がないと、即身成仏も受持成仏もあり得ない。肉身をもった凡夫の身のままの成仏は成立しない。

 

私たちの中に仏界が具わっている、とか仏界の中に私たちが具わっているでは、

まだ理の一念三千の世界です。そういう事ではなく、【温かい血の通った人格をもち、慈悲に満ちたあのお釈迦様が、私たちの中にいらっしゃるのだ】これで事の一念三千にの世界になる。 理論とか哲学的なものから、温かい宗教になる。

ですから、大聖人は【我らが己心の釈尊】観心本尊抄 とか、【日蓮が頭には大学世尊変わらせたまいぬ】といわれる。

 

【私たちはお釈迦様の中にいるのだ】つまり【私たちはお釈迦様の生命の中で生きているのだ】この【私たちの中にお釈迦様がいらっしゃる】と【お釈迦様の中に私たちがいる】この二つで【仏さまと私たちとは1体】となる。お釈迦様から見れば、私たちはご自分と同体なのです。ここで観心本尊抄の有名な言葉の【仏様は無始無終の久遠の生命であって、お釈迦様に導かれている私たちも仏さまと同体である】

 

【仏すでに過去にも滅せず未来にも生ぜず所化以て同体なりこれすなわち己心の三千具足三種の世間なり】となる。

 

興尊の教えもわからない、日有教義や日寛教、日蓮本佛では、成仏は無理、法華経誹謗の徒となり、残念だが苦しみから逃れられない。

 

三師御伝

 

撰時抄下に云く外典に云く未崩を知るを此を聖人と云う内典に云く三世を知るを聖人と云う予に三どの高名あり、一には去る文応元年太歳かのへさる七月十六日立正安国論を故最明寺殿につげ奉りて、宿屋入道に向て云く、禅宗念仏宗をうしなひ給ふべしと申させ給へ、この事を御用ひなきならばこの一門より事起つて他国に責られさせ給ふべしこれ一。
二には去る文永八年九月十二日さるとき平左衛門尉に向て云く、日蓮は日本国の棟梁なり、予を失なはゞ日本国の柱を倒すなり、只今自界叛逆難とて同士打して他国侵逼難とてこの国の人々他国に打殺さるゝのみならず、多くは生取にせらるゝべし、建長寺、寿福寺、極楽寺、大仏殿、長楽寺等の念仏者禅宗等が寺塔を急ぎ焼払つて、彼等が頚を由井の浜にて悉く切べし、然らずは日本国は必ず亡ぶべきなりと申しけり。
第三に去年文永十一年四月八日平の左衛門の尉に語りて云く、王地に、うまれなば身は従ひ奉まつるとも心をば従ひ奉まつるべからず、念仏の無間地獄禅の天まの所為なる事は疑がひなし、ことに真言宗がこの国の大なる禍いにて候なり、大蒙古国を調伏せん事真言師等に仰せ付べからず、若仰付らば急いで此国亡ぶべしと申せしかば、頼綱問て云く何つの頃一定寄候べきや、予が語経文にはいづれの日とは見ゑ候はねども天の御気色怒少なからず急に見ゑて候、今年は過し候はじと語申したりき、此の三の大事は日蓮が申したるにはあらず、只偏へに釈迦如来の御神い我か身に入りかわらせ給ひけるこそ、わが身ながらも悦ひ身にあまれり、法華経の一念三千と申大事の法門はこれなり

 

 

※只偏へに釈迦如来の御神い我か身に入りかわらせ給ひけるこそ、わが身ながらも悦ひ身にあまれり、法華経の一念三千と申大事の法門はこれなり

 

日興聖人の教えぐらい、理解しなさい、大石外道教。

 

南無妙法蓮華経

 

命に合掌