実感を伴った考えとして、心やお金や空間が貧しいと人は物が増える傾向にある。

「たくさん持っている」「たくさん選択肢がある」ということに豊かさの錯誤を起こすのだろう。


時折ニュースになるゴミ屋敷も同じような理屈で、「いつか使うつもりだ」「自分にとっては価値のある資源だ」とゴミを抱えて叫ぶが、似たような考えの工務店はたくさんあるし、似たような引き出しの中身もある。しかし、取っておくにもコストがかかっている。


仮に物が沢山あることが豊かさだとして、食べ物で言えばいつか飽きるし、腐ってしまうし、致死量も存在する。大地主の大名は反乱にあうわけで、クローゼットの紙袋の束も、2度と使わないものが9割だ。


何事も人によって程よい塩梅がある。


よくいた。ポケモンカードや遊戯王カードを集めに集めて天下を取ったような友達や、安い古着をたくさん折りたたんだ6畳の下北沢アパートの友人。


僕も服を溜め込んだし、本を積み上げた。

基本的に考えが貧しく、なかなか物とさよならできず、断捨離を着飾る主婦やミニマリストが嫌いだった。


しかし近年少しずつ物を捨てている。

貧しさを抜け出すためだ。

あるいは、僕は少し心が貧しくなくなったのかもしれない。考えが変わっていった。


考えを変えたくないという意固地な決心すらいつか変わる時が来るのだ。少し寂しくもなりながら、全てを背負って歩いていくには目的地が遠いことに気がついた。身軽でないと人を救えない気がした。


果たして豊かさとはなんだろうか。


どんどん便利になっていく社会に慣れると、まるでこれが豊かさなのではないかと錯覚してしまうけれど、僕が思うに便利という言葉は豊かさを遠ざける。


便利になればなるほど豊かさに辿り着くのが困難なのではないかと思う。雑巾を絞っては拭くことを繰り返したり、工具の錆を歯ブラシで落としながら充足感を得る自分がいる。不便で面倒なことにこそ大切な空間と時がまとう。不便なことは大抵時間がかかる。その時間に何かを思う。そこには愛があり、豊かさの端っこがある気がしている。

いや、歯ブラシも便利商品か。塩梅はある。過ぎたるは豊かさにあらずということかもしれない。


着る服の選択肢が少ない不便さに哲学を、

歩けば駅まで30分もかかる距離に風景を、


足りなさに足るを知る。


その意味が日常を通して少しずつわかってきた。

作り続けてきてよかったな。人生をやれてるなぁ。


長い前置きが何の話かというと、

所有する車が多くなり、文字通り泣く泣く、愛車を1台手放したのだった。


全く知らない陸送会社のおじさまが乗って行ってしまった。大切な車だった。愛知まで買いに行った。


失った後、自分で捨てたくせに、空いた駐車スペースの広さにすこし痛みを感じ、あぁ自分はなんてことをしたのだろうと数分間考えた。

でもこの痛みが人生であり、人生の豊かさの要素なのでしょう。


写真を撮った。

同じ年式のミニカーを買おうと思う。

そのミニカーはきっと子供にバレて、投げられたり酷い扱いを受ける。けれどそのイレギュラーな事態も、豊かさのひとつなのだ。