春の晴れ間。

今日は半日晴れた。


桜もいいけど、新芽が出たばかり黄緑色のケヤキが好きなので、春にはもちろん散歩をしたくなる。


あらゆる新芽を観察していく。

僕はその点、小学生のようだなと客観的には思う。


ドウダンツツジの鈴蘭みたいな花も、紫陽花のどうみても枯れた枝から出る真緑の葉も、生命感に満ちた新しい始まりを感じさせる。

雑草も元気。


旅行客も増えてきた。

春休みでウキウキした学生さんたちが、自分たちの世界を纏って歩いて行くのを眺める。


僕もてくてくと、スタバを片手に見上げた新緑のリズムに合わせて、花鳥風月という素敵な言葉を当てはめて歩いた。かーちょーふーげつ、かーちょーふーげつ。


またあっという間に春が来て、どんどん、時間がこうやって放物線を描いて早くなっていくなら、


短絡的に思うのは、自分がもう1人いたらなぁ、ということ。

1人が仕事して、1人が遊ぶみたいな。


自分がもう1人いたら。

よく聴くフレーズではあるけど、思ったあとすぐにそこに違和感を感じる。


2人いたとして、自分の主体はどっちだろうかと悩んでしまうのだ。

お互いの主体を主張し合って、どっちかがどっちかのせいにして、なんだか結局もう一方は他者になってしまうのだろう。


そんな不安を感じたあとに思い出すのは、自分は2倍になりたいのではなく、半分になりたいのだ、ということだった。


半田という名字で生まれたことで、常に半分を否応なく意識して生きてきた。


右と左や、上と下。量的に半分であることは相対的なもので、僕は常に誰かや何かと見比べて、境界線に立っている。


悲しみも半分、喜びも半分でいい。

残りの半分だけは、土に埋めるなりして保存しておきたい。自分だけの自分を持っていたいのだと思う。いつか春が来て芽が出るように。




寺山修司の詩に、「半分愛して」というものがある。


これを読んだ時、自分のことだと思えた。

本当は両方、全部欲しいのに、半分と言うことでかえってそれが際立つような。


だから詰まるところ自分が言う半分は、多分全部のことでもあるのだろう。


この季節に始まりと終わりがあるように、

隠しておきたい自分は、見せびらかしたい自分でもあるんだな。


理解されなくても良い半分を、それでもきっと理解して欲しいのだと、

人ってみんなそんなものだと思えば、半分を考え続けていきたい。


青いメロンを半分食べて
明日のために半分残す
あなたなしでは生きられぬから
夢も不安も残しておくの
私を半分愛してください
全部は いやよ
全部は こわい



歌もあって、前奏のピアノがものすごく好き。


半分愛して、と言えば、浅野ゆう子の歌もある。

この歌もすごく良い。半分にはきっと魅力が宿るのだろう。