牛丼に、自分で振りかける七味の量がいささか多く感じた。
かけ過ぎちゃった、というわけではない。むしろ足りない。すこし振りかける程度では役に立たないのだ。ちなみに辛党でもない。
いつの間に自分は七味の量が増えたのかと、疑問に思った。
七味側が弱くなったのかもしれないとも考えたが、だとするとあの小瓶はおかしい。
とにかく僕は、自分で無意識に適切にふりかけた七味を見て、紅葉みたい、と思ったのだった。
年を重ねるにつれ、感覚が鈍くなった気がする。
前にも書いたはずだけど、食育に熱心な家庭で育ったので、小さい頃は化学調味料の味が苦手だった。
いまではカップラーメンも美味しくいただきますし、味の素も食べられる。
海外のキツイ感じの食べ物もイケる。くさやもいただきますし。
なぜか塩味は薄い方が好きなままだけど。
七味は確実に鈍い。
熟練していけば能力は鋭くなっていくものと思っていた。
けれど優れていくのは知識と論理性ばかりで、物事に嫌だと首を振ることが少なくなった。
大人になることは鈍くなっていくことなのかもしれない。
そう仮説を立ててみると、今のところあまり外れていない。
老練さは頑固と紙一重で、柔軟さは若さで、
自分こういう人間なんで。みたい前口上は絶対使いたくないな。
方法なんて毎回違くて良いし、自分のやり方を人に勧めたりもしたくない。(この考えはゆとりだからかもしれない。)
紹介することはあれど、半ば強制するようなあの感じ。
スラムダンクの映画はすごく良かったけど、別に劇場で観ることを強要すんなよな。時間を置いて家でだって観たらいいよ。な。
ただアレはぜったい観たほうがいいぞ。
嘘です、観なくたっていい。
自分が良いと思うものを、当たり前に他人が良いと思うと思うな。
あなたの感覚だいたいそれ、鈍くなっているから。
僕は、あんなに嫌いだったtakerという人種を受け入れ、
苦手に格上げされた梅干しは残さず食べるし、
適当に話を合わせたりもする。前は嫌いだった。
擦りむいただけで泣いていたのに、どんな傷を負っても別段驚かなくなった。
そして、煩雑な日本の税制と会社経営のタスクも、受け入れ始めている自分が怖い。
前ほど焦らなくもなった。大御所だろうと大金持ちだろうと知らない。恐縮しない。
ずっしりと構えて、物怖じしない、なんでもやってみちゃう。立派な大人ぶった僕は鈍感なだけなのだ。
鈍感さを否定しない。それは一つの能力なので。
けれど僕は自分の感性の棘の先が丸くなっていることを、少し寂しく思うのです。
おそらく、子どもが1番優れているのだろう。
だから牛乳もピーマンもコーヒーもパクチーもセロリも嫌いな子が多い。あんなクセ、感性鋭いこどもには無理がある。
大人になっても苦手なものがある人は、感覚の優れた人なのだと思う。
苦いもの大好きでパクチー大好きなあなたや僕は、狂っているのだ。納豆を食べられない外国人がいるのは当たり前でしょ、と思う。
このような考えから、無理やり食べさせようとする人の気がしれない。
それって例えば、あなただけが気づいていないあなたの口の臭さを、誰かに無理やり嗅がせているようなものですよ、と思う。
何言ってんだか。
とにかく、
感性を少しでも守るためにはインプットが大事。
なのでもっと色々見てみたい。と思う。飽きたりず。
単純にワクワクして、エキサイティングして、どうしても誰かに話したくなるような風景や空間に触れたい。
だから今年は色んなところに行きたいと思う。
あと七味の量減らしてみようと思う。