誰にでもあるように、
急になんだか寂しくなるときがあって
好きな音楽を聴いても車を走らせても、
釣り動画を見ても、
誰かと楽しく話をしてさえ、その穴が埋まらない場合がある。
そんな日があった。

昼に両国の友達の家に行った。
手土産に持っていきなと妻が渡してくれたチーズケーキは玄関に忘れてきてしまって手ぶらで手持ち無沙汰で、
俺ってほんと抜けてるよなあと嫌な気持ちになりながら、
初めて会う友達の子どもたちとプラレールで遊び、
事前にテイクアウトしてくれたハンバーガーを食べながら住宅の相談に乗った。


画伯の絵。左がはんさん



かつて作ってあげた無垢材のテーブルを未だに使ってくれていて、ありがたい気持ちと、そのガタが出始めたテーブル越しに申し訳なさを感じた。

寄せ書きに自分が何を書いたか、忘れてしまう不思議。
アレに似ている。

いつでも捨てて良いんだからねって念を押した。
数枚の写真か記憶の端に残れば良い。

会話の最中、主役を譲れない子どもたちに引っ張られて違う遊びをしたり、お絵かきをしたりして、
飛び飛びの打ち合わせになった。

そんな普通に続けられない会話や、
マグカップに注いでくれたコーラが新鮮で、
友達の家に来ていることを改めて把握した。
思えば僕は最近コーヒーとビールしか飲んでいない。
話の最中に圧倒的な横槍が入ることなど想定もしていない。俺はまだまだ甘いな、コーラ。

窓の先には無数のマンションが見えがかり、
沢山の人が重なって住んでいる東京の不思議と、

壁に貼られた英語知育ポスターの「V」の欄に描いてあるviolinの不思議。いつもvはヴァイオリン。ベジタブルでも良いのに。思い込みかもしれない、世の中はベジタブルがマジョリティーなのかもしれない、
けど日常会話でviolinという単語を発音する機会にはまだ出会えていない。virusはよく使うようになった。

友達の今の家は賃貸で、見たところ量産クロスと人感センサーの天井照明とリクシルでできていた。床はもちろんプリントフローリングだ。

この感じが嫌だから家を買うなら好みの家を作りたい、という話だった。
その話はもちろん深く理解できる。
けれど「V」を教えるのにヴァイオリンのほうが都合が良いのと同じ理由で、マンションも都合よく成り立っている。

僕は無垢フローリングを使うことが多いけど、
テーブルのガタと同じように実際無垢材は反るし、伸縮するから隙間ができてしまうかもしれない。
プリント系建材は掃除もしやすいし安いし、合理的理由によって開発されている。そこへのリスペクトはある。
まあ基本は使わないんだけど。

いろいろ不思議だ。

計画してこうなったんだっけ。

暗めに演出された磁器タイルのエントランスを通り
オートロックの数字はいつの間にか暗記してて
土曜日にマグカップでコーラを飲んで
そろそろ家を買おうかと悩んで、
近くの美味しいパン屋の話をしながら、
こどもに全力の愛を注いでいるような。

そんな絵に描いたような友達の幸せそうな家庭を、

しっかり納めて育むような家の絵を描く自分を、

果たして俺は計画してたっけ。

ふと思った。
違う。

計画などしたことない。夢にも思っていない。
今はできることをしているだけだ。

好きでなくてもできることをした方が苦しみにくいし、
得意を伸ばす方が良いことがある。

でも得意になれるか分からないまま、好きなことで頑張って食っていこうとするのが夢の内訳じゃないか。

寂しさはこれか、と文を書き殴ってみて思う。
昔の夢をどこかに置いてきているんじゃないかと感じていたのだと思う。昔付き合っていた人も、もう会わなくなってしまった友達も、昔の夢も、ぜんぶおんなじところに保存されている。

チーズケーキは送ればいい。
夢はまた追いかけ直せば良いだけの話かもしれない。
僕の夢は何かの職業に就くことではなかった。

物分かり良くなれず、素直に大人になれなくて、
ずっとワクワクしていたいのだ。