願掛けとか祈ってみたりで、
お守りとか、絵馬とか、恋人が結ぶ南京錠とか
そういう非科学的なものが嫌いではない。
(この間お願いはしない、と書いたばかりだけど)
嫌いではないのだ。
頼るのが違うというだけで。
意味はないのかもしれないけど、「想い」を目に見える形にしたいのだと思う。
幼いころ、
「痛い」をわかって欲しいから包帯を巻きたがった。労ってほしくて、たとえ痛くなくても包帯が欲しかったし、絆創膏を求めたりした。
想いが伝わるか不安だから
人は花束を贈るし、
チョコを贈る日も廃れない。
なぜこんな話かというと、
金のなる木を会社のメンバーが去年の春頃買ってきてくれたのだけど、
水のあげすぎで根が枯れてしまった。
いわゆる根腐れであった。
葉っぱはまだみずみずしいのに、根っこは干からびた状態がいく日か続いた。
金のなる木はよく挿木されているのを見かけたことがある。
この会社はもうお金になりません、という暗示ではなく、
これからさらに増えていくんだというメッセージと思い、
Amazonで買った土とポッドに、せっせと挿木をしてみた。
増えなくてもいいから、ひとつくらい根を張って欲しいなと、願掛けをしたのです。
水はあんまり差さないほうが良いらしい。