ただひたすらその日の出来事を書こうと思ってはいますが、今日はご質問に答えながら昔の話を書きます。
ご質問やご相談がありましたらコメントでもインスタでもくだされば、答えられるときに答えます。

今回は、一番よくいただく内容です。


Q.半田のようにデザインを学びたくなり大学を受け直そうか迷っています。大学を受け直すとき、怖さはなかったのですか?またなぜのそのような決断をしたんですか?

という内容です。


単純に答えれば、めちゃくちゃ怖かったし、なんでこんな決断しちゃったんだろうと思うことは多々ありました。

でも始めてみないと本当に始まらない、とは思います。
自分は行動主義を掲げていますが、これが明確に自分の中に住み着いたのはこの時期でもあります。

(以下、経緯を話します)

早稲田大学2年生の冬、やっていたバンドが解散することになり、自分の中のクリエイティブな部分がすべて失われた気持ちになりました。

その喪失感はものすごく、皮肉なことに、僕の中の創作意欲を駆り立てました。

そこで、歌詞を書くのも好きでしたし文学が好きなこともあり、小説を書こうと決めました。
たしか11月にバンドが解散して、12月末の文學界新人賞に出そうと思っていたくらい、取り組んだのを覚えています。
ウミガメとバイオリンの話だったと思います。
タイスの瞑想曲から想起されるストーリーを書きました。

その作品で受賞し、その後芥川賞を取ったとすると、男性の最年少受賞者になれたので、そこまで想像して勝手にウキウキしていました。
今でも最年少は綿矢りさ先輩ですね。

もちろん満足いくものは書けず、応募すらできずにもんもんとバイトに明け暮れながら、好きだったアートやデザインを鑑賞したり本を読む日々でした。
昔の自分の背中を蹴りたいですね。よそ見するな書ききれ!と。

そんなこんなで、漠然と芸術家になりたいと思い始め、
3年生の春には将来は芸術に関わると決めていました。

そして、建築に出会い直します。

この辺は割愛します。
3年生時はゼミの仲間に恵まれ、本気で生涯教育を学び、きちんとした大学生活を送りました。この辺りで白井晟一、横尾忠則、山崎ナオコーラにハマります。

そして4年生の春に、美術予備校に通いだします。そこから7年間お世話になる、新宿美術学院です。
初めは武蔵野美術大学が志望でした。
芸大は無理だと思い込んでいたのです。

しかしその学費の高さに驚愕します。どう考えても自分で出せる金額ではなかったため、予備校の先生の勧めもあり、東京芸大を目指すことになりました。

当時、出身高校の校長先生が変わり、校訓のようなものを新たに掲げたことを同窓会の便りで目にします。
この言葉がどれだけ僕を鼓舞したか。
今でも忘れることはありません。それはこんな言葉でした。

「もっとも困難な道に挑戦せよ」


迷ったとき、宇宙兄弟の六太なら楽しい方を選ぶけど、僕の胸にはいつもこの言葉が出てきます。

また、単位を取るのが楽という噂だけで取ったジェンダースタディという授業を担当していた教授からも、素敵な言葉をいただきました。

予備校に通いつつ、周りは就職活動をしています。大手に決まった人もたくさん出てきている中、まだ決まっていない人のESを添削してあげたりしながら、少しの寂しさを感じていました。

そんなことをその教授に相談します。
オレは小説も書きたい、音楽もやりたい、美術も建築もやりたい、映画撮りたい気持ちあるし、教授にもなりたい、就職しなくていいのかとも思いますし、どれかひとつに絞れないです、どうすればいいのか分かりません。的な感じです。
誰かに相談するのは初めてのことでした。

すると教授はなぜかこう言いました。

「半田くん、あなたはすべてやりなさい」

目からウロコでした。その選択あり?と思いましたが、それは困難でありながら、すごく楽しい未来を想像させるものでした。

考えたこともなく、一つの枝にだけ花を咲かせるのが美徳という雰囲気がある中、確実に甘ちゃんな考えと一蹴されてしまう時代に、先生は言ってくれました。
ものすごく肯定された気がして、泣きそうになったのを覚えています。
それまでの人生で、そのように言ってもらったことはありませんでした。
先生は多分覚えてないと思うけど、あのときに僕は始まった気がします。
覚悟を決め本当の意味で決断しました。

まずは芸大に入ろう。困難なことに挑戦しよう、と。
今でもまだ、あの頃やりたかったことは、やりたいことのままです。



長くなってしまったので続きは次回に。