ぼくは
料理上手な母のスペシャルな食育によって、美食家な子どもだったと思う。

コンビニのサンドイッチとかは不味くて買いたくなかったし、カップヌードルですらあまり食べたことがなかった。

友達の家で出されたサラダの不味さにどうしていいかパニックになったこともあった。

でも、どんなに美味しいとされていても、梅干しだけは嫌いだった。
フルーツでも野菜でもない感じ、特例中の特例の食べ物で、蜂の巣とかカズノコの方が全然マシと思っていた。

お弁当の日の丸はスナック菓子のシリカゲルくらいに思っていた。

でも最近、大人になって
梅干しは普通に食べられるようになった。

なんだかどこかで、嫌いな食べ物があることを個性と思っていたような気がする。

ダメな部分を残していないと攻撃される気がしていたのかもしれない。

好きを深掘るか、嫌いを深掘るか、そのどっちかでしか人となりは探れないとすら勘違いしていた。


今はそれはもう味覚音痴で、何を食べても美味しいと感じる。
それが食べ物ならなんだって食べられる。
虫だとしても、(好んでは食べないけど)出されれば食べると思う。


僕はほぼ毎日ローソンでご飯を買う生活をしていて、ローソンすぎてポン太になるかと思うくらいだけど、

昨夜は施工でお世話になっている社長さんにお寿司に連れていってもらい、美味しさに衝撃を受けた。


これはイワシ。
でももうイワシではなかった。

少しの酢醤油で〆たイワシに新鮮な大葉、中央には赤酢でさっと混ぜ合わされた炊きたてのご飯。
それを焙りたての海苔で巻き、ぱっと切って提供してくれる一連のすし職人の動作。

そのカウンターの分厚さ、節のない桧の表情、匂い、全てが完成されていた。

だいたい、巻きモノは中央にネタではないのか

全ての既成概念を打ち壊すこちらのメニューに、
いつも買うローソンのネギトロ巻きは完敗したのであった。


普段のネギトロ巻きでも幸せは感じている
タマゴサンドも、ばかパンも幸せ

 
でも、たまにこういう高級な食事をしたときの幸せを人一倍味わえるのは、普段があるからだし

普段から食に幸せを感じている僕からしたら、いつも高級なものを食べている人に申し訳ないとすら思う

まずいなーって言って眉間にシワを寄せたり
すぐ文句言ったり

可哀想だな、と思う。

物事の悪い面を見れるからこそ、その物事の良い面を語ってほしい

人に対しても、そんな態度を取れる人に魅力を感じる。


食には関係ないけど、
今日は参議院議員選挙の期日前投票に行ってきました。

投票用紙を発行する機械の、四角いボタンを押すお祖父さんの太めの指が、なぜか目に焼き付いています。

あの機械が欲しいのかもしれない。

政治家はずっと僕のヒーローです。
みなさんを応援しています。