昨日は左だったのに今日は右なのかって、例えば日によって気分が変わるような人に、傷つけられてきた。
昨日は左だったあなたに合わせて左になった僕は、今日、左のまま、いつのまにか右になったあなたとどう接して良いか分からない。そんなことが多くあって、大体とても些細なことなんだけど、物事が変わってしまうことを寂しく思うのだった。
けれど、
柔軟に考えを変えていけることの素晴らしさを思う。
そういう年齢になった。変わりたくない自分も変わっていくのだ。
時代に合わせて考えを変えていけること。
アジャストしていくことの大人さを語ったこともあった。
私はこうなんだと、決めつけてしまっている人の強さに憧れてきて、そんな意固地な感じの自分だったこともあるけれど、
自分を決めつけている人の視野の狭さは多分、世界の広さへの恐怖か軽蔑のように感じるようになった。それ自体は悪くないが、懐が広くない感じ、素敵とは思わなくなった。
例えば大谷翔平が野球選手を明日急に辞めて医者を目指しますと言ったら、みんな残念に思って勿体無いとか言うかもしれないけど、それも彼の人生じゃん、と思う。
自分を決めつけないということは、他人も決めつけないということだ。
妻と子に対しても思う。あなたはこうだと決めつけたりしないよと。
いつのまにかそんな自分になっていた。
僕は明日から俳優になるかもしれない。それもまた良いじゃんね。
最近は白い色も好きになって、趣味が変わっている。
到底雲の上と感じていたものがいつのまにか当たり前の世界になっていたり、
ダサいと思っていたものが輝いて見えることも増えて、そもそも格下も格上もないなと思うようになった。まぁ、勉強不足の人は確実にいるけど。
オシャレなやつだけが正義みたいな業界にいるダサさに気付いたと言うか、思い込みから解放された。
大体みんなダサい。ダサくて良いじゃん。
変わりたくなかった自分を守ってきたのは劣等感からで、
変わっていきたい思いもまた劣等感からだと思うので、
変わったのは捉え方なのかもしれない。
昨日は右って言ってたのに今日は左だったとしたら、左に行けば良い。僕の譲れないものは僕以外の人の幸せなのだから。