Jesus guide me

Jesus guide me

新ブログです。

日々の生活で感じたこと、神さまから与えられた恵みを分かち合いたいと思います。

Amebaでブログを始めよう!

今日でこのブログを閉鎖します。

いろいろあったけど、やめちゃいます。


やっぱり、気持ちの整理のために使うのは間違ってるから。

気持ちの整理は祈る、聖書を読む、静まる。

そのことによってできるものだ。

ブログ書いてて、いろいろ考えて、気持ちの整理をした気になってるけど、それは違うもん。

ブログやmixiはいろんな意味で誘惑だ。

確かにいろいろなことを考えることもできるけど、そこに神様はいない。

みことばとかも思い出すけど、本当の意味で静まってない。

やっぱり神様との時間を大切にしなければ。


昨日のOCCでSがケータイのアプリを消した。

自分も月曜日のmixi日記をmixiを最後にお気に入りから削除した。

それは、誘惑があるからだ

現在お気に入りに残ってるのはgmailとYahooメールのモバイルだけだ。

アクセスしよう思えばできるけど、そこは誘惑との戦いだ。

アクセス制限をする手もあるけど、しばらくは戦ってみようと思う。

PCの方はもともと、お気に入りに入れてないけど、ツールバーがあるのでmixiツールバーを削除or非表示にします。

でも、退会も考えてます。


このブログをはじめたのは、ハタチになったとき。

それ以前にもYahooでブログをやってたり、mixiをはじめたときにJUGEMで作ろうとしたりしていたこともあり、再びブログをやりたくなり、ハタチというちょうど節目に新たに再開することにしました。

このブログは今までのブログで一番続いたブログです。途中、年初めにgooに浮気したけど・・・。

結局、mixiと同じになったり、くだらないことばかり書いてしまった。

ちょうど1年になる境目で閉鎖することは以前から考えていたことです。

しばらくは残しておくけど、そのうち、以前のブログのように消すかもしれません。


最近、僕は本当にだらけています。

罪を犯しまくってます。

人前では罪を犯してないふりをしているけど、本当はたくさん犯してます。

mixiやブログで書いてることは本音だけど、実際はできていないことばかりで、結局、偽りだらけ。


自分のやってることは何なのだろうって思う。

だからこそ、神様との時間を大切にしていきたい。

今は、自分がやりたいこともわからない。

もっと、もっと、神さまと交わりの時間を持って、将来の道を神さまに教えていただきたい。

自分が桜美林に、OCCに、KGKに、盛岡に、再び御徒町に導かれたように、神さまは導いてくださる。

だから、それを信じて、祈っていきたい。


今日でハタチも終わります。

明日で21歳になります。

ハタチ最後の1ヶ月は本当に最悪でした。

神様に与えられた大学生活を本当にダメにしてしまいました。

昨日も寝坊で1限を休んでしまいました。

2年間休んだことなんてなかったのに、本当に最悪でした。

3年前期前半は、最悪のカタチで終わってしまった。

21歳になるとともに、前期後半が始まる。

後半は、挽回するためにも真面目に勉強します。

だらけた生活からも脱出します。

これが21歳になるあたっての決意ともします。


今までありがとうございました。

これからの僕の信仰生活のため、大学生活のために引き続きお祈りしていただけたら幸いです。


それでは、さようなら。

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』

イザヤ43:4


『人はうわべを見るが、主は心を見る。』

サムエルⅠ 16:7


自分は本当に不器用な人間だ。

勉強も、スポーツも、音楽も、何もできない。


昔はそれがすごい嫌だった。

自分はなんで何もできないんだろうと思っていた。

少しくらい優れたものがあってもいいのにずっとそう思っていた。


体育とかだってやりたいのに足を引っ張るのが嫌で遠慮していた。

中学のときも、部活で、顧問は自分が部活をやっているときサボっている人が試合に出てて嫌だったから、私はそんなことしないとか言ってたのに、サボっている人に同情して、試合に出し、「サボっている人たちも1回くらいは試合に出してあげたいし、ゆうとは最後の試合に出してあげたい」とか言って、結局、サボってる人も最後の試合に出た。

自分だけ、最後の大会だけだった。

どうせ、それも情けだと思う。

みんなにもそうからかわれた。

体育で遠慮したのだって、自分を守るためでもある。

ミスを責められるのが嫌だったから。


自分はダメな人間でどうしようもない。

生きる価値もない。

ずっとそう思っていた。


母親にもあたりまくった。

自分以外の家族は、運動神経抜群で、誰も自分の気持ちなんてわからない。

何も優れたことがなくて、賜物という言葉が嫌いだった。


教会でも、学校でも、家族や親戚でも周りは、運動できる人ばかりで、自分ひとり違うのが本当に嫌だった。

みんなはできて楽しめているのに、自分はうまくいかないし、つまらない。

そんなことばかり思っていた。


何か優れたことがあれば絶対楽しいのに、と思っていた。

運動は好きだけど、下手くそ、絵を描くのも好きだけど、別に上手くない。パソコンも好きだけどタイプも遅いし、ミスも多い。

何もできるものない。


神さまはなんで俺をこんなダメな人間に造ったんだ。

そう思うことが多かった。

背も低い。勉強もできない。運動もできない。音楽もできない。

生きる価値がないと思っていた。


母がどんなにみことばを通して励ましてくれても、そんなの優れたものを持っている人だからこそ言えることだ。

そういうのは説得力がないと思っていた。

俺の気持ちは誰もわからないと言ったときに、「お母さんはわからないけど神さまはわかってくださってるよ」と言ってくれた。

でも、俺は神様だけじゃ意味がないと思ってしまっていた。


賜物という言葉が嫌いといったけど、大学1年の夏にフィリピンに行ったときに、Y牧師が「賜物というのは、人より何かが優れていることじゃなくて、神さまから与えられているもののことを言うんだよ。だから今、ゆうとが大学で勉強できていることも賜物なんだ」と言われ、すごい励まされた。


でも、日本に帰ってきて、結局、みんな賜物という言葉を優れているものばかりに使っていて嫌になった。

2年になってバイトの面接も落ちまくるし、やっぱり自分はだめなんだと思っていた。←働ける日が少なすぎという理由もあったけど。


さっきmixiで書いた自分の言語能力について、否定されたことも、コンプレックスとして感じていたことで、それを何度も否定されて怒ってしまった。


自分が嫌いだった。

正確に言うと、自分が大好きになりたい?からこそ、何かができるようになりたかった。

自分が大好きだからこそ、否定されるのが嫌で、何かできるようになりたかったというのが正しいのかもしれない。


そんなときにあったのが去年の夏期学校。

あそこで自分は神さまに愛されているということを実感できた。

神さまが共にいてくださるということを実感できた。

自分にとって去年の夏期学校は本当に大きかった。

たくさんの人を通して神さまは、僕に教えてくれた。

ありのままでいいということを。

ありのままの僕を神さまは愛してくれていることを。


だから、できないことを隠さなくたっていいんだって思った。

でも、結局、隠してた。

また否定されるのを恐れて。

神さまは高価で尊いと言って下さってるのに、ありのままの自分を人に否定されるのを恐れてしまっている。

努力が認めてもらえない。

そんなこともたくさんあった。

でも、神さまは知ってくださっている。


神さまはだけが知っている。

それだけで感謝なことなのに。


なんでこんなに人の評価ばかりを気にしてしまうんだろう。

だから、つまらないことで怒ってしまうのだと思う。


夏期から帰ってきて、母親に分かち合った。

母は、俺がどんなに反抗しても俺のために祈ってくれていた。

今だって、いろいろと俺がつまずいたときに祈ってくれている。

あんなに俺は酷いことを言ったのに。

たくさん苦労をかけ、その上、残酷なことをたくさん言ったのにだ。


それなのに、俺は、自分がちょっと嫌なことを言われたくらいで、その人を責め、むかつき、許せないと思ってしまう。

弱いからと言い訳して何回同じ誤りを繰り返しただろう。

誰かのために祈るというのは、本当に難しいことなんだって思う。

特に自分を否定する人のために祈るというのは。


自分もっと祈れる人間になりたい。

そして、ありのままの自分を本当に受け入れ、人目を気にするのではなく、神さまに感謝をして生活したい。


今は、いろんなことを自己中に考えてしまい、自分が嫌な思いをすることから逃げている。

だから、もっと祈りたい。


許せないと思うのでなく、その人のために祈っていきたい。


今回の件を通していろんなことが考えさせられました。

昨日、祈り会の意味について考えさせられた。

最近は学内で祈る時間が多くなって、本当に感謝をしていた。
今までは週一の祈り会だったけど、水木のOCCの活動でも桜美林のため、メンバーのために祈る時間を持てて、本当に満足していた。

昨日は2限終わりだったけど、4限に祈り会があったので待っていた。
しかし、レギュラーメンバーのAちゃんから祈り会に参加できないというメールが来た。

そのメールが来たときに思ったことは、「このまま、誰も来なかったら、ひとりじゃん。ひとりなら、もっと早く祈って、帰ったのに」
ということだ。
しかし、1年生がひとり遅くなるけど、行きますというメールをくれた。
だから、いつもどおりの時間に祈り会を行った。

周りが本当にうるさくて、聖書を読むのも大変だった。
祈っている途中にも、「私の小枝チョコ1個食べたな」とか大声で叫んでいて、マジ困ったけど、本当に祈り会ができた。

その後、1年生は用事があり、戻っていた。
忙しい中、来てくれたことも、本当にうれしかった。

でも、その後、ひとりで、祈り会について、いろいろ考えた。
ひとりだったら、先に祈って早く帰るという自分の考えが間違っていたということに気づいた。
毎週、決められた時間に祈るということが大切なのに、ただ祈ればいいというような考えになってしまっていた。

早く帰ろうと思った理由のひとつに自分だって忙しいんだという思いがある。
みんな忙しい中、上級生の中でひとりだけOCCに参加していて暇人みたいになってしまっているのが嫌だった。
でも、OCCに参加していたのも、1年生だけにするのは、よくないという思いからで、神様のためではなく、1年生のため、自分のためになっていた。

祈り会のことだってそうだ。
Aちゃんが、その時間が都合がいいからになってしまっていて、Aちゃんのために、その時間まで、待っているとなってしまっていた。

確かに水曜日と木曜日にOCCの活動、そして金曜日の祈り会で大きな恵みは受けてきた。
でも、自分の中で参加するときの思いに神様が消えてしまっていた。
あれだけ、神様の栄光を現すために活動しなきゃダメだとみんなに訴えていたのに、自分がそれをできていなかった。

最初は、早く授業が終わる日でも参加していたのは、神様の栄光を現すためという思いがあった。
でも、いつの間にか人のためになり、神様ではなく、自分の栄光のためになってしまっていた。

これからの学内活動、自分の栄光のためでなく、神様の栄光のために活動したい。
そして、祈り会の意味を再確認し、祈りのときをもっていきたい。