2012山陰31 太皷谷稲成神社 | 楢丁(YOUTEI) 旅の話

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趣味で書きためた旅日記が、膨大な量になりました。2020秋に脳出血、2023には食道癌を発症と、様々なことが起こりますが、克服してまた旅に出たいという気持ちは変わりません。
お付き合い頂けたらありがたいです。どうぞよろしく。

 

8/16(木)③太皷谷稲成神社

 昨日あたりから天気は急速に回復に向かったが、同時に気温も上昇、今日は素晴らしい晴天だが、そのかわり日向は焦熱地獄。


 ここからだと、もう、津和野が近い。以前、岩国に住む従兄を訪ねた折、萩、そして津和野へ案内してもらった記憶がよみがえるが、津和野が島根県とは思っていなかった。

 

 鉄道沿いの道を内陸へ辿っていく。途中、山道の木陰でしばし休息、章子はここでもうちょっと休みたかったようで、メモにはその時の不満が綴られていた。

 

           麓から太皷谷稲成神社の鳥居を望む


 街中を抜けて、まずは太皷谷稲成神社へ。川沿いからは、山の斜面に続く朱の鳥居が見えてくるが、昔一度来たところとはいえ、何だか凄いな、という気持ちになる。山の中腹に朱塗りの社が展開するこの神社には、さすがにたくさん観光客の姿が見える。リフト麓のパーキングに、日陰を見つけて車を入れた。

 

          太皷谷稲成神社へは階段をかなり上る


 世間にはよく、3大何とかというのが数え上げられることがある。ここも3大稲荷の一つとして挙げられることがあるほど、壮麗な稲荷神社だ。3つといわれて、どうしても伏見稲荷は外せないだろうし、知名度から豊川稲荷はそれに次ぐだろう。もう一つ、としてあげられるのがここか、あるいは佐賀の祐徳稲荷、これは甲乙つけがたい。しかしここは「稲成」を正式名として名乗るところが他と違う。

 

 


 一通りお参りを済ませるが、ここから見渡せる津和野盆地は、まさしく安野光雅の世界。石州瓦の屋根が実にいい景観を作り出している。山頂には、かつての津和野城址がある。リフトに乗っていこうよと言うなり、章子が大喜び。そんなことで、こんなにはしゃぐとは思わなかっただけに驚いた。

 

               リフトに乗ってご満悦!


 さすが一直線に登るリフトは急勾配が凄い。終点に着いてみると、城址まではさらに登りが続くようで、杖の用意があった。

 

             本丸跡より津和野盆地を望む


 本丸跡まで歩いて登ると、ここから見渡すことのできる津和野の町は、いっそう綺麗だ。山あいに開けた細長い平野部に広がるのは一面の田んぼ、これにコントラストをなす赤褐色の屋根が、ほぼ中心を貫く川と道に沿って点々と続いている。暑さを忘れる、というほどではないが、風に吹かれていると心地いい。

 

         津和野盆地を、黒煙を上げ横切る蒸気機関車


 城跡の出丸方面に帰る途中、蒸気機関車の汽笛が鳴った。頂上で、何かを待ち構えている様子のおじさんがいたが、ターゲットはこれだったのか、と納得。急いで出丸に登ってみると、来ました、黒煙を吐きながら、力強く走る蒸気機関車が。警笛を響かせ、山裾を疾走する機関車を見下ろせるこの場所は、撮り鉄っちゃんには聖地となり得るだろう。


 

 

8/16(木)④津和野街歩き

 陽は幾分翳ってはきたが、山を下りてみると、暑さが和らいだとは到底思えない。テン場にどうだろう、と思われた場所もあったが、人家が近すぎて落ちつきそうにない。自転車を降ろして街を巡る。

 

           山を下りた平野部で出逢ったご神木


 津和野といえばこの景色、という鯉の泳ぐ水路のある通りを走ってみるが、でかい錦鯉の太っているのに驚く。細い水路に群がるその姿は「ひしめき合う」、という形容がぴったり。

 

                カトリック津和野教会


 「カトリック津和野教会」は、木造西洋風の教会建築、その外観とは裏腹に、中は畳敷き。ちょうどステンドグラスから、西に傾いた陽が差し込んで美しい。次いで、併設の乙女峠資料館に入ってみた。明治初年に、長崎の浦上から送られてきたキリスト教徒達150名あまりは、改宗を迫る拷問の末、37人が殉教の道を選んだという。明治の殉教のことは何となく聞いてはいたが、ここ津和野の「乙女峠」がその地だったのだ。乙女峠にも記念館があるというが、今回は時刻も遅く、またの機会、かな。

 

     教会内部は畳敷き。ステンドグラスに西日が当たり、美しい


 商店街の雑貨屋さんに入ると、奥からは、この暑さにほとほと参った、という風情のおばちゃんが出てきた。昼寝でもしていたところなのか、ちょっと悪いことをした、という気分になった。章子はこの店で、ふきんと鍋敷きを購入。

 

                伊藤博石堂前にて


 こんな風にあちこちを覗きつつ、のんびり自転車を漕いで行くと、古い構えの薬局があった。「伊藤博石堂」という店だが、ショーウインドウには「街角美術館」風な展示が施され、「津和野の女-伊沢蘭奢のように-」というシックな図柄のポスターが貼られていた。ちょうど章子が読んでいる本に登場するという女性、「伊沢蘭奢」の嫁ぎ先だという。何という巡り合わせだ。

 

             伊藤博石堂のショーウインドウ

 

 この人のことなど、全く知らなかった俺だが、松井須磨子の後を継いだトップスターというから、ここで浜田出身の「島村抱月」と繋がった。この人も夫と子がありながら、奔放な男性関係を持ったようだが、今の芸能界なら、と考えると、ちょっと複雑な気分。社会が寛容さを失っているのかも、という思いもある。才能のある人間は、どこか過剰なものを持ち合わせているものだ。


 章子のメモには「せっかくだから『一等丸』(伊藤博石堂の看板商品・胃腸薬)買ってくればよかったな」とあった。


 陶芸作品と絵画を展示するギャラリーがあった。息子さんの絵とお母さんの陶芸。なかなかに大胆な作風の陶器が並ぶ。聞けば日展の工芸部門に4回も入選しているというではないか。しかし、本人はいたって謙虚、先生の指導を仰いで出品したという入選作が展示してあった。しかし、それは荒々しさがすっかりなりを潜め、確かに立派なものというにやぶさかではないが、あまり魅力的には思えなかった。むしろ、この人がそんなことを意識せず、好きに作ったという作品の方が断然いい。ただ、それではきっと、出品したとしても入選しないのだろう。公募の展覧会などというのは、概してそんなものだ。

 

 この人は、長く東京都下の東久留米に住んでいたが、夫婦でUターンして津和野へ帰郷、ここで店を開いたということだった。画家の息子さんは、確か海外に在住している、ということだったと思う。しかし、飾ってあった彼の絵がどんな作風だったかは、すでに思い出せないのが残念。

 

・津和野の陶芸と絵画のギャラリーは「クンストホーフ津和野」。津和野街観光協会ののHPには以下の記述。
      遊亀窯 中尾厚子とベルリンで画家として活躍中の中尾成とのギャラリーです。
      クンストは芸術、ホーフは広場又は庭を意味し、ドイツ語で仲間の集う場にした

      いという思いからです。

 


 この後、温泉に入ったが、さて、それがどこだったか分からない。写真が残っていれば一発で特定できるのだが。

 

 メモには「近くに道の駅あり。併設の温泉は600円だが空いていた。外の小さな流れにはカワニナがいっぱい、季節にはホタルが飛ぶのだろうか?ハグロトンボがたくさんいた」とあるが、条件に合うところ、というと道の駅「津和野温泉なごみの里」だろうか?

 

 

 テン場を標高の高いところにとりたいと、付近をうろうろしたが、適地が見つからず、結局、昨日と同じ匹見川の畔にある公園へ。昨日いた人たちは依然、連泊している。我々は、もう、フライシートなど張らず、テント本体を蚊帳代わりとして利用、雨が降ったらそのときは諦める、という姿勢。何しろ、少しでも暑さを避けて寝たかった。


 外での食事の最中、今晩はずいぶん蚊に刺された。前に買っておいた腕時計式の蚊よけは、たぶん電池切れで役に立たず、蚊取り線香をつけたが、効果は薄かった。昨日は風が強かったおかげでさほど刺されなかった、ということらしい。


 下の広場にお泊まりの人たちは早々と就寝の様子、遅くなるにつれだんだん星が見えてきた。雨の心配はなさそうだ。  
 


※「雪舟の里記念館」の「益田兼堯像」は竹下内閣当時の「ふるさと創生一億円」で購入したものという。この資金の使い方として有効とはいえるが、その後の記念館の収益が気になる。しかし、記念館の建設自体は、地元の文化向上に寄与していることは間違いない。

・雪舟の顕彰碑はおそらく岡山県総社市の「宝福寺」。涙でネズミの絵を描いたという言い伝えの残る寺だ。ここへは初めて吉備路を回ったときに寄っている。この旅の時より10年ほども前のこと、太皷谷稲成神社や府中の石岡さんを訪ねたのと同じ道中。

・「重森三玲」の記念館は、吉備中央町の庁舎に併設。「天籟庵」という茶室と石の庭園があった。京都のどことかから移設したという。ここに寄ったのが2年前の2010年。だから、醫光寺で測量したときの写真を見つけてすぐに反応できたというわけだ。



 

 

2012夏 山陰の旅第2弾 その32につづく