2017-8台湾18 牡丹社事件 | 楢丁(YOUTEI) 旅の話

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趣味で書きためた旅日記が、膨大な量になりました。2020秋に脳出血、2023には食道癌を発症と、様々なことが起こりますが、克服してまた旅に出たいという気持ちは変わりません。
お付き合い頂けたらありがたいです。どうぞよろしく。

2017-8台湾18
牡丹社事件

12/29(金)②
 さて、車で少し戻ってみると何軒かの集落があり、このあたりだろうと当たりをつけた路地の入り口に、墓への道標が確認できる。ここから路地に入ると、道はさらに細くなり、しまいには舗装路がつきてしまった。

 

しまいに道はこんな感じになる。日本風に鳥居が建てられているが、墓は普通、寺にあるものだろう

 

  周囲はすでに草っ原と畑だが、その中に墓はあった。犠牲者が宮古島の住人だけに、大きな沖縄風の亀甲墓が据えられ、墓の前には塔が建てられている。さらに、1982年にこの墓を改修した旨の文章が記された石碑があった。

「大日本琉球藩五十四名墓」



墓の前には1982年に改修した旨の碑文が


沖縄地方に特有の亀甲墓だが、全体を写したものがなかった

 事件そのものは150年近く前に起こっているので想像するしかないが、双方にとって悲劇だったということだろう。何しろ異民族同士の接触、しかも片方は極限状態だったはずだから、ちょっとした弾みでとんでもないことになるのは、可能性として十分考えられよう。

 観光地図にはこの近くに「石門古戦場」の表示もあるので、足を伸ばしてみることにした。駐車場には道に架かるアーチと共に弓を引きしぼる原住民の彫刻が建てられ、なるほど、日本軍と原住民の戦闘が行われた古戦場なのだろうと想像できる。


石門古戦場を示すアーチ

 石門山への登山口に資料館があるが、これを覗くと、壁面に写真や絵と共に説明が並んでいる。それによると、この事件をきっかけに日本は帝国主義の道へと踏み出していったという論旨だったように思う。そう言われれば確かにそのように考えられるが、その視点には国民党政権の影響が感じ取れる。

 

 いずれにせよ、当時の台湾と背後に控える清や、朝鮮そして琉球、ロシアや西欧列強との関係、植民地として侵食されるアジア諸地域、やっと近代化に踏み出した日本、といった様々なファクターをどう捉えるかにもよるが、なるほど、ここがその契機となったところなのか、と思えばその地を踏んだ意味も大きい。


簡素な資料館

 

展示の一部。これ以外にも各地で戦闘に及ぶ事件があったらしい。2023現在、朝の連ドラ「らんまん」で、牧野富太郎がモデルの「萬太郎」が台湾に派遣される際、ピストルを携行するよう、軍から指示を受ける場面があった


 一つ手前にある駐車場に車を移し、ここから続く長い階段を上ってみる。この丘の上に何かあるらしい。


丘に登ってみると、なにやら立派なモニュメントが

 登り切ってその正体が分かった。小山のてっぺんに、大きな標柱が立てられている。モニュメントとしてはかなり立派なものだ。しかし、その碑文がセメントですっかり消されている。これはどうしたことだろう、と思ったが、傍らにあるこの石碑の変遷をたどった3枚の写真付きの解説で、その大方の経緯と意味が分かった。


左がもとの「西郷都督遺跡記念碑」、中が国民党による「澄清海宇還我山河」、そして2016年、無文の状態に

 帰ってから見つけたネットの記事があり、ここにコピペすることにした。しっかり取材されたレポートで、そうした方が拙い筆で書くより、よっぽどこの問題がよく分かると思うからだ。


   台湾最南部の屏東(へいとう)県。車は山道に入り、先住民パイワン族が多く住む牡丹郷に差し掛かった。この辺りは明治政府初の海外派兵となった1874年の「台湾出兵(牡丹社事件)」の激戦地跡。現在は石門古戦場と呼ばれている。遠く台湾海峡を望む丘の上に、大きな石碑が建っていた。碑文は剥がされ、文字は刻まれていない。


   石碑は日本統治時代の1936年、出兵を指揮した陸軍中将、西郷従道を顕彰する「西郷都督遺跡記念碑」として建立された。だが戦後、中国から来た国民党の独裁下で、碑文は祖国復帰を意味する「澄清海宇還我山河」に付け替えられた。


  2016年、台湾の主体性を重視する民主進歩党(民進党)の蔡英文政権発足を機に、史跡や建造物を本来の姿に戻す「歴史現場再生」の動きが本格化。これを受け屏東県は同年10月、県文化資産審議委員会の決議を経て、「西郷碑」復元への一歩として、戦後の碑文を取り外した。


 台湾出兵はそもそも1871年に琉球(沖縄)宮古島の年貢船が台湾南部に漂着し、上陸した54人が現地のパイワン族に殺害されたことが発端。元牡丹郷長(村長)でパイワン族の華阿財さん(79)は「集落の人々は貴重な水や芋を分け与えたのに、漂着した人たちは逃げようとした。言葉が通じず、誤解したことが悲劇を招いたのではないか」と推測する。

 

 明治政府はその3年後、事件を口実に出兵に乗り出した。西郷従道は3600人もの兵を率いて台湾南部に上陸し、海辺に陣を構えた。従道の戦略について、中央研究院民族学研究所(台北市)の黄智慧・助理研究員は「山地に暮らすパイワン族に対しては威嚇の意味が大きかった。諸外国に日本の軍事力を誇示する目的もあったのではないか」と分析する。


 戦いは近代兵力を備えた日本軍が優位に進め、牡丹社の頭目(首領)父子の首は取ったが、双方の戦死者は少数だった。だが、日本兵は滞在が数カ月に及ぶうちにマラリアなどで五百数十人が病死し、戦費も膨らんだ。「そういった意味では、勝者のいない戦争だった」(黄氏)


  現地の人々は当時、従道の行動をどう受け止めたのか。パイワン族は文字を持たず、日本側の記録しかないため、真相は不明だが、華さんはあることを教えてくれた。「地元には『サイゴー』という言葉がある。仕事や作品が『見事だ』という意味だ。従道が圧倒的な力を見せつけたことを、敵ながらたたえたことが伝わったんじゃないでしょうか」


 時の政権によって、史跡などへの評価が変わってきた台湾。現在、屏東県と牡丹郷などは古戦場一帯を「牡丹社事件歴史地域」として整備し、解説員の養成も計画している。碑文の復元については国民党支持者らの反発もあり、実現していないが、華さんは「西郷碑」に戻すのが当然だと語る。「牡丹社事件はつらい記憶。だからといって、日本人が建てた石碑の碑文を付け替えたのでは、歴史の真実を伝えることにならない」


 ライフワークとして牡丹社事件の研究に取り組み、長老の聞き取り調査なども続けてきた華さん。2005年には沖縄を訪れ、宮古島の事件関係者の子孫と交流を深めたという。「次世代のために史実を検証し、和解につなげるのが私たちの役目だ」と力強く語った。
 

以上の記事はこのサイトから抜粋   


 ものの見方には様々な解釈があるが、台湾には行くたびに考えさせられることが多い。前回台湾に行った時はちょうど総裁選挙戦のまっただ中、帰国してから民進党の勝利を知ったが、その結果が反映されてこの碑文の処理があるわけだ。台湾という国、もしくは地域の成り立ちやこれを取り巻く国内外の情勢の影響というものを、来るたびに感じさせられる。我々も徐々にではあるが、このような体験を経て、この島への理解を深めつつあるといったところだ。



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