2016 紀伊半島の旅12 神宮徴古館 | 楢丁(YOUTEI) 旅の話

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趣味で書きためた旅日記が、膨大な量になりました。2020秋に脳出血、2023には食道癌を発症と、様々なことが起こりますが、克服してまた旅に出たいという気持ちは変わりません。
お付き合い頂けたらありがたいです。どうぞよろしく。

2016 紀伊半島の旅12 

神宮徴古館

 

8/10(水)⑥
 つながれて待っていた自転車に跨り、坂を登って丘のてっぺんに聳える、神宮徴古館へ。上りの坂道には、行きに考えたほど苦労はしなかった。

 

                     神宮徴古館をバックに


 徴古館に入ると、展示を見るのもそこそこにソファを探す。暑い盛りに外を動き回った疲労感がどっと出た。しかしそれを押して、座って間もない、2時からのギャラリートークに参加したあたり、我々の向上心は並々ならぬものがあった、といえなくもない。


 復元された御饌殿前に集まると、案内役の権禰宜は話も上手く、内容もなかなかに興味深いものだった。徴古館は空襲で一度壊滅的な被害を受けたということ、伊勢神宮は20年に一度の式年遷宮があるので、世界遺産にはなれない、また、そのための費用は全部自前など、考えてみれば当たり前のようだが、聞かされてみればなるほど、と思うことが多かった。

 

 しかし、何となく天皇家の後ろ盾があるわけで、費用なんか、どうとでもなるだろう、と思うのが一般的な感覚だろうし、門前のおはらい町を含め、季節を問わず賑わう様子を見れば、我々もそんなことに苦慮しているという感じを持ったことは微塵もなかった。

 

 よく考えてみれば、そもそも、大日本帝国憲法下で、ここが発足した頃にはそんな不自由などなかっただろうが、戦後、政教分離を定めた日本国憲法の下では状況が一変したことだろう。その上、米軍の空襲で九割方の所蔵品を失ったとなれば、その後の苦難は想像に難くない。その意味で、ここで聞いた話は大変ためになった、といえる。

 

              神宮徴古館は洋風建築。このあたりはおもしろい


 続いて、今度は美術館へ。もうどんな美術品があったのかよく思い出せないほど、印象に薄い展示物だった。日展などで活躍する、日本画や書の有名どころの作品、芸術院会員、文化勲章受章者、文化功労者といった保守本流の作家ばかりで、水準の高さは認めるにやぶさかではないが、表現が安定しきっているせいだろうか、面白味に欠ける。畢竟、好みの問題に帰するのだが、日展のような大規模公募展の上澄みをすくった感じ、といえばいいだろうか。やっぱりこれが神宮と名の付く美術館の限界か、と思わざるを得なかった。


 展示されている作品の多くは、式年遷宮に「奉賛」という名目で作家たちが寄贈した、ということのようだが、それも何となく妙だ。


 こちらには、ちょうど周囲から死角になるところに、背もたれ付きのソファがあった。庭に面したいいロケーション、ここではひとしきり、2人とも意識を失った。

 

          最後に回った農業館。農耕民族の神としてこれは外せない、ということか


 そうこうしているうちに閉館の時刻は迫ってくる。最後に残るは農業館、昔の役所のような木造の建造物に、著しく地味な展示物、しかし、日本の博物館創設に大きな貢献をしたという、田中芳男の事績が大きく取り上げられていた。これを知ることが出来たのは収穫といえそうだ。

 

 

 ここを閉じに来たと思われる係員から、もう閉館の時刻と思われるのに、どうぞごゆっくりご覧ください、と言葉をかけられた。こういう一言が、時として施設全体の印象を左右する。


 駐車場に着いてみると、すでに陽は大きく西に傾き、想定していた木陰は車を大きく離れていた。もっとも、日中からこの時刻までをカバーするだけの場所があるわけではなく、これは致し方なかった。

 

 

2016 紀伊半島の旅13 につづく