2020 再びの会津9 湯川たから館 | 楢丁(YOUTEI) 旅の話

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趣味で書きためた旅日記が、膨大な量になりました。2020秋に脳出血、2023には食道癌を発症と、様々なことが起こりますが、克服してまた旅に出たいという気持ちは変わりません。
お付き合い頂けたらありがたいです。どうぞよろしく。

2020 再びの会津 その9

 

8/12(水)②

 R49に出て会津若松へ向かう。

 

 途中、名刹の「勝常寺」へ寄っていこうとして路地に入ったが、駐車場に入りそびれ、引き返そうとしたところが、役場の支所のような建物に「高羽哲夫の軌跡」という看板が出ているので、何だか分からないまま、入ってみた。出てきた係員が、素晴らしく元気で明るいお姉さん(といっても40は過ぎていそうだが)、ここは湯川村というところだそうで、お土産にクリアファイルやメモ帳など様々用意してくれた。何だか歓迎されているようでうれしかったが、訪れる人も稀なのだろう。

 

高羽哲夫の展示施設「湯川たから館」

 

 高羽哲夫は、この湯川村の出身、山田洋次と組んで寅さんシリーズを撮影したカメラマンだが、撮影ばかりか脚本などにも関わった、陰の立て役者といった存在のようだ。

 

頂いたグッズを手に


 展示室には寅さん映画全シリーズのポスターや、「学校」、「霧の旗」といった、この人が撮影を担当したもの、そして山田洋次がこの記念館のために寄せた文章、脚本のたぐいなどの資料も展示されていた。寅さんシリーズはいくつか見たし、それぞれに憶えているシーンなどもあるものだから、つい長居をすることになった。

 

「フーテンの寅さん」シリーズは、だんだん記憶の中の存在になりつつある


 帰りに、あくまで元気なお姉さんに、冷めても美味しいという、湯川村のお米を勧められた。章湖はお土産用に、2合ほどの小さなものが欲しかったようだが、ここには賞味期限切れのものしかなく、残念。

 

 容姿も含め、イベントコンパニオンとしても十分通用しそうなこの人は、商工会議所の職員だった。

 

勝常寺山門


 すぐ裏手にある勝常寺は、大変立派なお寺、重要文化財の平安仏が数体いらっしゃるということだが、今年いっぱいは拝観停止しているという残念な措置、これは致し方あるまい。

 

残念!

 

それにしても、こんな片田舎の寺に、といっては失礼ながら、写真で見る限りでは、京都や奈良にあっても全く不自然ではないほどの仏像が存在する不思議。当時のこの地域は一体どんな有様だったのか、という興味は尽きない。

 

勝常寺薬師堂前にて


 幹線に戻り、さっき話に出た、湯川村の物産もあるという、道の駅にまず寄ってみた。新しく、大きな道の駅「あいづ」は、大変な人で賑わっている。さっき紹介された、二合の米が2つと湯川産の小瓶の日本酒、手ぬぐいがセットになった¥2000の商品はここにも置いてあったが、章湖が欲しいのは、その中の2合の小包になっている米だけ。残念ながらそれは、ここにも置いていなかった。

 

 

 

※勝常寺
   勝常寺は平安時代初期の弘仁年間(810年 - 824年)に法相宗の学僧・徳一(760?年 - 835?年)によって開かれたといわれている。徳一は中央(畿内)の出身で、藤原仲麻呂の子とも言われるが確証はない。20歳代で関東に下り、会津地方を拠点に宗教活動を行った。日本天台宗の宗祖である最澄と三一権実(さんいちごんじつ)論争と呼ばれる、天台宗と奈良の旧仏教の優劣に関わる論争を行ったことでも知られる。徳一の開創が確実視される寺院としては慧日寺(恵日寺、福島県磐梯町)と筑波山の中禅寺(茨城県つくば市)があり、その他にも多くの寺院を建立したと伝えられる。勝常寺については、徳一の創建を伝える文献等の直接的史料はないが、当寺には本尊薬師三尊像をはじめ、9世紀にさかのぼる仏像が多く残り、これらは徳一が関係した造仏であると考えられている。
    創建当時は七堂伽藍とその附属建造物が多数立ち並んでいたと伝えている。木造薬師如来像が本尊とされ、会津五薬師の中心として会津中央薬師と称されるようになる。鎌倉時代後期からは真言宗に属するようになり、近世まで仁和寺の末寺であった。
    応永5年(1398年)に火災があり、その後室町時代初期には講堂(現・薬師堂)が再建された。現在残されている建物はその薬師堂以外は近世以降の建物である。


 

2020 再びの会津 その10につづく