2012山陰29 雪舟の里記念館 | 楢丁(YOUTEI) 旅の話

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趣味で書きためた旅日記が、膨大な量になりました。2020秋に脳出血、2023には食道癌を発症と、様々なことが起こりますが、克服してまた旅に出たいという気持ちは変わりません。
お付き合い頂けたらありがたいです。どうぞよろしく。

8/16(木)①
 6時過ぎにはテントをたたむ。下の公園にトイレがあるといっても一つだけ、そこに複数の泊まり客がいるものだから、昨日見つけておいた万葉公園へ移動することにした。

 

              テン場は河川公園上の土手


 万葉公園の駐車場には、すでにたくさん車があった。我々はそこから少し離れた、人のいない四阿へ。近くの道路に路駐して、ゆっくり過ごす。近くに横笛の練習に来ている母子がいて、これをBGMに、万葉の庭を眺めながらと、図らずも贅沢な朝食タイムとなった。

 

                万葉公園の四阿で朝食


 今日のターゲットは益田の市街地。島根は安来から松江、出雲、大田、江津、浜田に益田と、日本海沿いに比較的大きな街が並ぶ。かつての舟運で開けた都市、ということだろう。こんな風に旅をする以前は、そんな街の成り立ちを考えることも少なかったが、土地の歴史をいくぶんかでも知ることは、旅をより楽しいものにするファクターの一つだ。

 

              雪舟の里記念館(HPより転載)


 「雪舟の里記念館」は幼稚園の隣にあった。日本家屋風だが、瓦屋根の描く曲線がどこか中国を思わせる、そんな想像を喚起する建物は、ちょうど雪舟のイメージと重なる。ちょっと太めの、愛想のいい女子職員が応対。展示品には複製が多いが、雪舟ともなれば、これは致し方のないところだろう。そんな中、「益田兼堯像」は正真正銘、雪舟の真筆。さすがに雪舟だ、優れた筆致に感心した。当時の益田城主の肖像、必ずしも美化されていない、迫真の人物像に納得。庭園もまた、中々のものである。

 

 

 2階の展示室には、日本画家「笠原可雄」の作品。この人は深谷市血洗島の出身という。渋沢栄一と同郷ということだ。「初期の作品の方が好ましい」とメモが残る。

 

            「雪舟終焉の地」の石碑が建つ


 ここが「雪舟終焉の地」、ということは、石碑が建っていたので知った。彼の史跡はあちこちにあるが、いつだったかの旅の途中で、大きな顕彰碑を見た憶えがある。あれはどこだったろうか。京都の相国寺かもしれないが、おぼろげな記憶を辿ると岡山の可能性もある。とすれば吉備路をうろついている時だったかも知れないが、さて。

 

                雪舟作の庭園という


 雪舟作の庭園があるというのが「醫光寺」。由緒ある古刹、というにやぶさかではないが、その庭園は思ったほどのものではない、という印象が残っている。「拝観500円はボッタクリと思う」とメモにある。2年ほど前に大幅に改修したというが、昭和12年、「重森三玲」が測量した当時、撮影した写真が残っていた。


 「重森三玲」については、やはり岡山のどこかの町だったと思うが、庁舎の敷地に記念館があって、そこで知ったのだと思う。昭和を代表する造園家、全国の歴史的な名庭を測量して研究した、ということだったが、なるほど、こんなところまで来て、と言うと語弊があるが、しっかり調査・研究の実績を残していることに感心した。


 ここには雪舟、雪村らの作品が展示されていたが、全てとは言わないにしても、本物かどうかはちょっと怪しいように思う。ここにあった大きな屏風絵については「様式化して面白くない」とメモが残る。


 そうこうしているうち、座敷でオカリナ演奏のリハーサルが始まった。後ほど開催されるコンサートのようだが、庭園の四季を写したスライドとコラボする企画という。ただ、シンセサイザーの伴奏カラオケに乗った演奏、というのが頂けない。それなら独奏の方がいいと思うが、そう感じる人は多くはないのだろう。

 

 

※「雪舟の里記念館」の「益田兼堯像」は竹下内閣当時の「ふるさと創生一億円」で購入したものという。この資金の使い方として有効とはいえるが、その後の記念館の収益が気になる。しかし、記念館の建設自体は、地元の文化向上に寄与していることは間違いない。

・雪舟の顕彰碑はおそらく岡山県総社市の「宝福寺」。涙でネズミの絵を描いたという言い伝えの残る寺だ。ここへは初めて吉備路を回ったときに寄っている。この旅の時より10年ほども前のこと、太皷谷稲成神社や府中の石岡さんを訪ねたのと同じ道中。

・「重森三玲」の記念館は、吉備中央町の庁舎に併設。「天籟庵」という茶室と石の庭園があった。京都のどことかから移設したという。ここに寄ったのが2010年。だから、醫光寺で測量したときの写真を見つけてすぐに反応できたというわけだ。


 

 

2012夏 山陰の旅第2弾 その30につづく