この週末、戦争映画をいろいろと見ています。

ホモソーシャル系を探っていたのですが、そこから戦争文学、戦争映画へと発展しました。
近年ブームになっていることもあり作品はたくさんあります。
私は、戦争を賛美する安易なセンチメンタリズムを掻き立てるのではないかと、
懐疑的、批判的な目で見ており、スルーしていました。
それではよくないと遅まきながら思うようになり、今になっていろいろと。
いやあ、U-Nextといい、アマゾンプライムといい、便利ですね~。
わざわざDVDを買わなくてもほとんどの作品を視聴できる。

 

で、とっても今さら感ありありなのですが、ようやく『戦場のメリークリスマス』を

視聴したのです。公開したのは私が大学生のころだったか。

私は結構食わず嫌いのところがあって、世に名高い名作も、見る前から難癖つけて

遠ざけてきたものがたくさんあります。

そして、出会ってから傾倒して、どうしてもっと早くから見なかったんだろう、と反省しまくり。

最近は敢えて、敬遠していたものを見るようにしています。

 

『戦争のメリークリスマス』といえば、坂本龍一演じるヨノイ大尉が、デビッド・ボウイ演じる

美男子のイギリス人捕虜へ抱く同性愛感情を描いたものとして巷では知られています。

そしてその通りなのですが、私はそれはテーマの一つに過ぎないと

わかりました。その意味ではホモセクシュアルの映画だと思っていたのですが、

ホモソーシャルの要素のほうが強いと考えを改めました。

 

そして、もっとも重大なテーマは、人は理不尽な死をどう受け入れるか、ということなのだと

思い至りました。

 

追記

この後のレビューで、セリアズがヨノイにキスする場面を、「ユダの口づけ」の

もじりであると解釈したことから、上記見解は撤回し、

この口づけが最大のテーマであるという解釈に変更します。

 

捕虜収容所ですから、軍隊の鉄の規律の下に、理不尽極まりない暴力と横暴と腐敗が横溢しています。

日本人として見るにつらいところがありますが、

これは日本軍だからということはなく、軍人の理不尽な横暴、特に捕虜に対する残虐さは、

どこの国も大差ないことを、『ヒトラーの忘れ物』という映画を見て痛感しました。

こちらは、ドイツ軍捕虜にナチスが海岸に埋めた地雷を撤去する作業をさせる

デンマーク軍の無慈悲無情な横暴を描いたもの。

日本軍の捕虜収容所とさして違わない残虐非道さが

いたいけな少年兵たちを痛めつけます。

 

さて『戦場のメリークリスマス』です。

デビッド・ボウイ演じる美男のイギリス軍人(ジャック・セリアズ)は、

俘虜長を処刑しようとするヨノイを妨害した廉で生きながら砂に埋められ、

死を迎えます。

熱帯の熱い砂に埋められ、意識も朦朧とするなか、

彼は、自分が学生時代、同じ学校にいながら、小さな弟がリンチされるのを

見て見ぬ振りをしてやり過ごしたという過去の過ちを想起します。

自分がこんなに理不尽な死を遂げなければならないのは、

かつて弟を見捨て裏切ったからなのだ、

この死はその罪の贖いなのだ、と自分に言い聞かせ、

納得させているのでしょう。

そんな風にでも思わなくては到底やりきれない、無意味な犬死。

 

俘虜長は、感情のコントロールを失ったヨノイの、俘虜への

暴虐非道な振る舞いに対して、堪忍袋の緒が切れ正義感から異を唱えただけでした。

我を失ったヨノイが、その俘虜長を日本刀で斬りつけようとするところに立ちはだかって、

妨害したセリアズ。

 

俘虜長が処刑されるのも、それを妨害した自分が生き埋めにされるのも、

理不尽極まりなく、どんな理屈をもってしてもそんなことで殺されなければならない

死を正当化することはできない。

なぜ自分は、こんなに惨めで意味のない無駄死にを受け入れねばならないのか。

 

セリアズは、その死をかつて自分が犯した罪の贖いと思うことで、

自分を納得させることができた。

熱砂に頭だけ出して昏睡状態にあるセリアズの金色の頭髪をひと房切り落とすヨノイ。

ここで同性愛エロスが濃厚であるのは確かだが、それだけではない。

原作では、ヨノイは死なずに故郷に帰り、そのひと房の頭髪を神社に奉納した。

ヨノイもセリアズの死の思いを受け止め、その死を聖なるものにしたのだ。

 

一方、ビートたけし演じる原軍曹は、戦争終結後、

イギリス人捕虜に対して残虐な行いをした廉で収監され死刑の宣告を受ける。

処刑を翌日に控えた原軍曹の独房を、捕虜収容所でひそかに心を通わせていた

ローレンスが、最後の別れをするために訪れる。

美貌のセリアズと化粧を施したヨノイとのホモエロティシズムが印象的なこの作品だが、

じつは、本当の主人公はビートたけし演じる原軍曹のほうだと思う。

そして彼とローレンスとの間のほのかな友情。

時に、敵と味方を超越して真の人間性と人間性が触れ合うときに降臨することのある、奇跡の友情。

むろん原軍曹は、権威には弱く、手下には暴力を振り回し威張り散らす典型的な

日本軍人のもつ醜さ、矮小さをすべて備えている。いや、そのように見えた。

しかし、彼はそのような人ではなかった。

それがこの映画がもたらしてくれた発見であり、救いでもある。

その彼がロレンスにしみじみと言う。

「私のした事は、他の兵隊がした事と同じです。

なぜ、自分だけがこうして処刑されなければいけないのか、わからない」と。

 

なぜ、自分が死ななければならないのか、わからない。

 

その同じ思いを、セリアズは贖罪であると捉えることで、納得して死んでいった。

しかし原は納得できない。分からないままに死を迎えねばならない。

だからと言って、原は見苦しく他人のせいにするのでもなければ、

他者を呪って取り乱したりもしない。

静かに自分の死を受け入れてはいる。納得のいかないままに。

 

「メリー・クリスマス、ミスター・ロレンス」と呼びかける、原軍曹の穏やかな表情で

映画は終わる。処刑するはずだったロレンスを、かつて、クリスマス・イブの夜に、

酒に酔って自分はサンタ・クロースだと言いながら、ロレンスを釈放したあの夜に

発した言葉。

自分の死の意味を考えることも、納得することもすべて放棄した

あとには諦念しかない。

合理的言葉による説明を拒絶したあとに到達した、

原軍曹の諦念。

自分はサンタ・クロースなのだ。すべての人間に贈り物を施すために

山から下りてきたサンタ・クロースという、見せしめの道化なのだ。

それを表現するビートたけしの演技は秀逸だ。

この悲しい諦念は、その後現代に至るまで、解読もされず説明もされずに、

つまり成仏されないままに、

我々日本人の心のなかに潜み続けているような気がしてならない。

この地蔵のような柔和なほほえみに封印されたまま。

それを納得のいく言葉で解明することは、戦争で逝った人々に対して

我々日本人がいまだ果たしていない宿題なのである。

 

追記

途中で、地が出てしまって文体が変わっています。読みぐるしいですが、

面倒なので、このままにします。ご容赦のほどを。