最近、
人の成長(理解度)を階段に例えて考えてる。
なんで共感できる人とできん人がおるか。
1つは階段の差なんやと思う。(その他、価値観等)
疑問を持つ。考える。経験する。気付く。納得する。
そうゆう1つ1つの出来事の度に階段を登ってる。
ずっと一緒におる友達に話が通じんとしたら、無意識に自分だけ高いとこまで登ってるからかもしれない。
高さが違えば景色も違う。角度が違う。相手に見えてないものが見えてる。伝えても相手は解せない。
たくさん階段を登った人は足が痛くなるし、そんなに登ってない人は痛さを知らない。だから足が痛い時の解決方法とかアドバイスされても無意味な情報にしか思えない。
でも、
相手が理解できないことを責めるより、相手がいま何段あたりで、その頃の自分がどんな風に乗り越えたか思い出しながら、目線を合わせて伝えていく。それが思いやりやと思う。
例えば、「革命のファンファーレ」を読んで響く人とそうでない人がいてるのも、階層が違うことが理由の場合があると思う。
もしかしたら階層が違っても、ある共通の疑問やら経験をした(ってゆう階段を登った)人だけに鳴り響くファンファーレかもしれない。(←うまいこと言うた!)
とゆうことは、今あたし達がいてる階段をこれから通る人も勿論おる。
そう思った時に、
「革命のファンファーレ」は、これからまだまだ色んな人をわくわくさせるはずで、長きに渡り需要がある名著なんちゃうかとつくづく思うのである。(その他の本もまた然り)
この例えで使う階段は、
何段からはこの階層だとか、あと何段であの階層ってゆうのはない。それぞれ人によって違ってる。
そして、想像力が豊かな人にはなかなか有利である。