喜矢武さんのご両親、ご兄弟のことなど
家族のことたくさんお話してくれました
前半
2017.11 やんや~やんや キャンペーン
3人兄弟の真ん中「なぜか自分だけ性格が違った」
── 幼少期はどのような子どもでしたか?
喜矢武さん 活発というか、やんちゃでよくふざけていましたね。小学生のころ、住んでいたマンションに進入禁止の半地下のような場所があったんですが、柵をのりこえて入ったことがありました
ひとりで出られなくなってしまって、通りがかった人に助けてもらった記憶もあります。目を離すと何をするかわからない子どもでした
小さいころ、母が僕をおんぶしていて落としてしまったことがあったそうです
そのときテニスボールくらいのたんこぶができたみたいなのですが、母からは「あのときにネジが何個か外れたのかも」と言われていました
── ご兄弟もそのような感じだったのですか?
喜矢武さん 3つ上の兄と5つ下の妹がいるのですが、ふたりともまったく違う性格です。特に兄は真逆で、とにかく真面目。どれくらい真面目かというと、幼少期にスーパーファミコンでいっしょに遊ぶじゃないですか
僕はそのまま片づけないんですが、兄は毎回スーパーファミコンをきちんと箱に入れて片づけるんです。母にも「なんでこんなに真逆の性格になったのか」と言われていました
妹もすごくしっかりしていますね
おそらく、母に怒られている僕を見て、反面教師にしていたんだと思います
── どのようなご両親でしたか?
喜矢武さん 父は会社員で母は専業主婦でした。母は昔ながらの口うるさいタイプで、僕は「部屋が汚い」「片づけない」とよく怒られていました。父には怒られた記憶がありません
口数は少なかったのですが、子どものころからたくさん遊んでくれる優しい父親でした。休日に「動物園に行きたい」と言えば連れて行ってくれるし、いろいろな場所に家族を連れて行ってくれました
父親の両親が福島に住んでいたので、夏は福島の山や自然の中で遊んだり、冬は雪で遊ぶこともありました。特に父は山が好きだったので、家族でよく山登りに行きました
僕の名前「豊」は、福島県にある飯豊山に由来していると聞きました。父が好きな山で、「豊かな人生を歩んでほしい」という願いを込めて名づけてくれたみたいです
2023.2 金剛山 アルバム「COMPACT DISC」
家族で飯豊山に登りご来光を見た日
── ステキなエピソードですね
喜矢武さん 山登りは家族でよく行きましたね。僕自身も自然の中を歩くのが楽しかったし、山の景色を見るのも好きでした。テントに泊まったり、山の中で食べるカップラーメンがやたらおいしかったり。楽しい思い出ばかりです
ただ、中学生になると反抗期もあって、「なんで僕が怒られるんだ!」という気持ちが強くなっていました。実際、僕が悪かったんですけど。ちょうどそのころ、美術の時間に彫刻刀で左手をケガしてしまい、予定していた家族登山が中止になったんです。それからは自然と家族で山に行くことはなくなってしまいました
── 中学生以降は、一度もご家族で山登りをされなかったんですか?
喜矢武さん そのまま長いあいだ登らなかったのですが、僕が大学生になり、20歳くらいのときでしょうか。家族の誰かが「家族で登ろう」と声をかけました。向かったのは飯豊山です
父は年齢的に登山が難しくなってきていましたし、飯豊山は標高2000mを超える、簡単に登れる山ではありません。だからこそ、父が元気なうちにみんなで登っておきたいと話しました。
兄は都合がつかなかったので、父・母・妹・僕の4人で行きました
山頂近くの山小屋で1泊し、翌朝山頂を目指す予定だったのですが、父が足を痛めてしまって。父は山小屋で待機することになり、母と妹と僕の3人で山頂まで登りました
── お父さんも残念でしたね
喜矢武さん 山頂へ向かう道は左右が切り立った崖で、鎖をつたって進むような難所があります。僕はアドベンチャー気分でワクワクしていましたが、母と妹は悲鳴を上げながら必死に登っていました
父と山頂までは行けませんでしたが、山頂付近でいっしょにご来光を見られたのはうれしかったです。飯豊山の山頂付近からの景色は本当に壮大で、雲海も見られました。父は特に何かを言ったわけではありませんが、あの日の登山は僕にとって大切な思い出になっています
── お父さんは数年前に亡くなられたそうですが、2024年にもこの山を約20年ぶりに登ったとSNSに投稿されて話題になりました。お父さんの靴がぴったりだったので履いて登ったと書かれていたのが印象的でした
喜矢武さん:約20年ぶりに兄と父の友人と行くことができました。父の靴が自分の靴のサイズとぴったりだったので履いて行ったのですが、古いし重いし硬いしで疲れました(笑)
飯豊山はやはり過酷でしたが、とても壮大な景色でした
2022.9 氣志團万博
「バンド続ける」に母が放った衝撃的なセリフ
── 喜矢武さんは大学卒業後にゴールデンボンバーを結成されています。ご両親の反応はいかがでしたか?
喜矢武さん 父は「好きに生きろ」というタイプで、特に何も言わなかったですね。ただ、母は怒っていました。大学まで出たんだから、ちゃんと就職をしてほしかったと
実は就職活動自体はしていて、SEの面接を受けたりもしていたんですよ
── どのタイミングで就職活動を辞めたのですか?
喜矢武さん もともとバンド活動を続けていたので「就職する人生」と「バンドを続ける人生」の2つの選択肢があって迷いました。就職活動を進めるなかで、自分の人生を改めて考えたときに「こっちの人生じゃないな」と思ったんですよね。それで、就職活動を辞めてバンドに専念することにしました
母に「就職活動を辞めてバンド活動をする」と伝えたら、「はあ!!??」と言われました(笑)
さらに「こんな子に育てた覚えはない」とまで言われまして。「こんな子に育てた覚えはない」って、漫画でしか見たことのないセリフですよね。まさか自分が実際に言われるとは、と軽い衝撃でした
2025.12 喜矢武豊 ネタバレNight
それでも両親はこっそりファンクラブに入り…
── その後、どうされたんですか?
喜矢武さん 大学卒業と同時に実家を出ました。もともと卒業したら家を出るつもりだったので、そのタイミングでひとり暮らしを始めました。とにかく家賃の安い部屋を探し、バイトをしながらバンド活動を続けていました
といっても、当時はバンドでの収入はゼロです。生活費は完全にバイト代だけだったので、苦しくなると実家に帰って、お酒やお米をこっそり持って帰っていました。こっそりのつもりだったんですが、母にはしっかりバレていました(笑)
そのたびに「あんた!こんな生活は3年までだからね!」「いつまでそんな生活続けるの!」と言われていましたね
── お父さんはどのような対応だったのですか?
喜矢武さん 父は相変わらず何も言いませんでした
「好きに生きろ」というスタンスのままでしたね。いっぽうで母は口うるさく言い続けていたんですがでも、知らない間に父と母は2人でゴールデンボンバーのファンクラブに入っていて、こっそりライブに来ていたんです
僕が「ライブがあるよ」と告知したわけでもないのに、自分たちでチケットを取って。ライブ会場で撮った父と母の2ショット写真をメールで送ってきてくれたりもしました
なんだかんだで、ずっと下積み時代から応援してくれていたんですよね
2023.8 振り返ればケツがいるファイナル
ブレイク後も何も変わらない父と母
── お母さんは下積み時代からお父さんと一緒にライブを見に来ていたとのことですが、売れてからご両親に変化はありましたか?
喜矢武さん 母も父も何も変わらないですね。「売れても調子に乗るんじゃないよ」「周りに感謝しなさいよ」って、昔からずっと言われ続けています
もちろん喜んでくれているとは思うんですけど、スタンスはずっと変わらない感じですね。 LINEでも「ライブ観ました」「テレビ観ました」と連絡が来るんですが、必ず最後に「周りに感謝しなさい」と書いてあるんです。ほんとに毎回(笑)
父も相変わらずで、特に変わったところはなかったですね。
後半
下積み時代の極貧生活。頼みは「肉のハナマサ」
── 大学を卒業後、バンド活動を続けるなかで『女々しくて』がヒットするまでは、大変な下積み生活を送られていたと聞きました
喜矢武さん 事務所に所属してゴールデンボンバーとして活動はしていたんですが、バンドで得られる収入は0円。収入源はずっとバイト代だけでした
そんな状態なのに、ある日いきなり事務所から「ワンマンライブをやろう!全国47都道府県を回るぞ」と言われて
そのときは、「客もそんなに入らないのに全国を回るなんて、頭おかしいんじゃないか?」と思いましたね(笑)
当然、全国を回ればバイトはできなくなり、家賃も携帯代も払えなくなりますよね。それで、当時マネージャーだった所さんという方にお金を借りることになりました。
── 所マネージャーは、下積み時代からゴールデンボンバーを支えていた名物マネージャーさんですよね。
喜矢武さん 「母ちゃんと子ども」みたいな関係で、ゴールデンボンバーが売れないときから世話を焼いてもらっていました。でも、お金を借りたものの当時は返すあてはなかったです
── お金がないときは、どのように生活をされていたのですか?
喜矢武さん 実家へ頻繁に帰っては、お米とお酒を持ち帰っていました。あとは、とにかく安い食材を求めて「肉のハナマサ」に通っていました
セールで安い肉を買いだめして冷凍したり、値段の安い卵をよく買ったりしていましたね。主食は実家から持ち帰ったお米のうえに、炒めた肉と卵をのせた丼ものです
ちょっと贅沢したい日は、近所の激安スーパーで売っていた「野菜天丼」を食べました。野菜だけの天丼で、当時は1個200円でしたね。それでも当時の僕にとっては贅沢な食事です
あとは、とにかく安い菓子パンをよく食べていましたね。味はどうでもよくて、袋に書かれたカロリーだけを見て購入するんです
いかに安くカロリーがたくさん摂れるかが、当時の最重要ポイントでした
肉のハナマサさんと卵には、本当に助けられていました。
「これ売れないかも?」と不安になったけれど
── 売れていないときに、焦りのようなものはありましたか?
喜矢武さん なかったですね。「まぁ、そのうちなんとかなるだろう」くらいの感じでした。バンドを結成した当初は、売れる確信があったんですけどね
鬼龍院翔という、めちゃくちゃ変な奴がいて、こんなバンドはほかにはないから売れるかもしれない!と思っていました。 でも活動を続けているうちに、だんだん「あれ?これ売れないんじゃないか」と感じ始めて
それでもライブではお客さんにウケてたので「ほかにはないバンドという意味では間違っていないんじゃないか」と考えていました。そんなふうに思いながら活動を続けていましたね。
── そうだったんですね。
喜矢武さん 僕は大学4年のときに就職活動をしていたんです。でも、最終的には「バンド活動をしている人生のほうが楽しそうだな」と思って就職活動をやめました。
ただ、就職活動を経験したことで、「もしあのまま就職していたら味わえなかった人生を、今歩けているな」という感覚があって。だから、バンド活動そのものをひとつの自分の人生として楽しんでいましたね。バンドがダメになったらそのときにまた将来を考えればいいくらいの気持ちでした。
茶封筒に現金を入れて、借金を返済した日
── バンド活動を続けて、生活できるようになったのはいつごろですか?
喜矢武さん 1年間、毎月連続でワンマンライブをやることになって、動員が徐々に増えていったんです。途中からお給料が出るようになって、数千円くらいですがギャラがもらえるようになりました
生活のたしにはならないんですけど、それまでは0円だったので、初めてお給料をもらったときは本当にうれしかったですね
「何かに使った!」と言える金額ではなかったので、ご飯を食べて普通に消えていきましたが、それでも喜びは大きかったです。
── 事務所に所属しておよそ4年後に『女々しくて』が大ブレイクしています
喜矢武さん 運よくテレビをきっかけに広がっていって、ありがたいことに一気に売れていきました
それでまず、所マネージャーに借金を返しました。茶封筒に借りていた金額を入れて、「これでどうだ!!!」と目の前に置いたんです
所マネージャーには「売れてよかったね」と言われました
── よかったですね。
喜矢武さん 母にも大学の学費分のお金を渡しました。学費を借りていたわけではなかったのですが、就職をしないでバンドをすると言ったとき、「大学に行かせた意味がない!」と言われていたので
「これでうるさいことは言わせないぞ!」という気持ちでした
ただ全額を一度に返したわけではなく、実家に帰るたびに現金で「これでどうだ!」と返していました(笑)
音楽に携わらないことが長く続けるコツ
── ゴールデンボンバーは2024年で結成20周年を迎えました グループで長く活動を続けるコツなどあるのでしょうか
喜矢武さん 音楽に携わらないことですね。音楽に携わらないからこそ、音楽性や方向性の違いでメンバー同士が揉めることがないんです
あとは、リーダーの鬼龍院の言うことをよく聞くことですね。彼がいろいろ決めてくれるので、それに乗っかっていくという感じです
鬼龍院の提案にのっかることで活動の幅が広がって、いろんなことに挑戦できています
メンバーは今ではビジネスパートナーですが、家族よりも長い時間を一緒に過ごしているので特別な存在ですね
20年間で関係性もそんなに変わっていないと思います。今でもみんなで会議もしますし、ほどよい関係だと思います
樽美酒研二のご両親は僕たちのライブに出演してくれたりもしますし、家族ぐるみで会うこともありますね
── 喜矢武さんはゴールデンボンバー以外に、舞台や映像など幅広いジャンルで活躍されています。いろんなお仕事をされていて、切り替えるのは大変ではありませんか
喜矢武さん 観に来てくださるお客さんを楽しませるという意味では、ライブも舞台も同じなんですよね
だから、別物として切り替えるという意識はほとんどなくて、目の前のことを一つひとつ一生懸命にやる、という感じです
── 俳優としても、とても活躍されていますね
喜矢武さん 俳優の仕事もやってみたいと話していたら、2012年に映画で初主演をさせていただきました
主演なのにセリフが7行だけという、かなり異例の主演でした(笑)
今は映画やドラマ、舞台をさせてもらっています いただいているお仕事を楽しくやらせてもらっているので、「もっと何かをしたい」という強い願望は今のところないですね。今あるものを丁寧にやりたいという気持ちです
あとは、この先「大人の世界」に飲み込まれず、自分のペースで活動していきたいですね
童心を忘れない大人が、僕はカッコいいと思うので。いつまでも童心を忘れずに活動を続けていきたいです
── 下積み時代のご自身に何か伝えられるとしたら、なんと言いますか?
喜矢武さん 税金対策と資産運用は、早めにプロに頼って準備しておけと言いたいですね
僕は何も対策をしていなかったので、かなり損をしている気がするんです(笑)
そこは強く、当時の自分に言ってあげたいですね
泣いてしまったわー( ̄▽ ̄;)
やっぱり親は子がいくつになっても心配で応援するものなのね
素敵なご両親に育てられたきゃんちゃん!
知らない間に父と母は2人でゴールデンボンバーのファンクラブに入っていて、こっそりライブに来ていたんです
僕が「ライブがあるよ」と告知したわけでもないのに、自分たちでチケットを取ってライブ会場で撮った父と母の2ショット写真をメールで送ってきてくれたりもしました
なんだかんだで、ずっと下積み時代から応援してくれていたんですよね
2024.8 飯豊山
実は数年前に亡くなった父が好きだった山であり、僕の名前の由来でもある福島県にある飯豊山に、兄と父の友人と先日やっと行く事が出来ました。約20年ぶりの飯豊山は過酷だったけどとても壮大な景色でした。親父の靴がサイズぴったりだったから履いて行ったけど古い革靴で重いし硬いし歩きづらいしで余計疲れた笑。ヘロヘロで下山した最後の写真は母曰く親父にそっくりらしい
2015.10
いつの間にかグッズ買ってた母ちゃん笑
めっちゃ食われるあたし笑
2/6-7
ゴールデンボンバー 喜矢武
トレンド入り おめ
グループで長く活動を続けるコツ
鬼龍院の言うことをよく聞くこと
いろんなお仕事をされていて、切り替えるのは大変ではありませんか
目の前のことを一つひとつ一生懸命にやる
きりきゃん同じこと考えてる!
2014.1 情熱大陸