作品について https://www.allcinema.net/cinema/390067

↑あらすじ・クレジットはこちらを参照してください。

 

・洋子: 宮沢りえ☆   作家 介護職

・さとくん: 磯村勇斗☆  介護職 殺傷犯

 

実際の障碍者殺傷事件を、元にした作品だそうですが

犯人主体の話ではなく

彼の同僚となった女性作家に、“投影“というか

問題を投げかけ(ぶつけ)ていて

とても、心揺さぶられた。

 

―揺さぶるーと言っても

とても感動しましたーというのとは違って

言葉にして、明確にしたくない心境を

体ごと揺さぶられて

「ね!そうだよね!そう思うよね!」と

迫られた感じです……

 

 

▼~▼内容にふれて、デキる範囲で雑談です……違うときスミマセン

▼▼▼

 

 

1.さとくんの事   

 

結果的に、入居の障碍者を何人も惨殺した彼だが

それまでの彼は、ほかの職員よりも、むしろ

入居者に“寄り添う”姿勢を見せていた。

 

後になっては、彼の善意の行動は

心にもないコトだったのかもしれないが

当初は、心底、入居者に寄り添っていたと思う。

ではなぜあんな真逆のことをーとなるけれど

思いが強く、深いほど

“裏返り”も極端になってしまう可能性があるのかと。

 

入居者をバカにして、心ないことをしていた他の職員は

文字通り、“心はなく”、深い意味もなく、からかうだけで

つきつめて、入居者のことを思うこともない。

だから、殺す理由もない。

 

さとくんは、ある女性の真っ暗な部屋に

自作の紙芝居の“欠片”で作った“月”を飾った。

どうせ見えないかもーどうせ意味はないかもー

それでも、さとくんには、そうする心があった。

 

そんなさとくんが、いつまでも、優しさだけをもっていてくれたら……

 

病院から老人介護施設に転職した、私の知人の看護師さんは

転職後、2-3年した頃に、虚無感に襲われたと言っていた。

(病院では、治って退院する人はいるが

その施設では、ソレ以上なにかよくなる人は、ほとんど期待できないから)

 

尽くした誠意は、広い視野に立てば(神の目とか)

決して無駄ではないと信じているけれど

どんなに誠意を尽くしても、相手にも自分にも報われないと感じて

“ある結論”に向かうようになってしまうと

思い入れの強さの反動が、悲しさとなり、虚しさとなり

全否定の無への恐ろしいエネルギーになるのかもしれない……

 

(どんなに寛大な人でも、聖人君子ではないから

プロだから我慢しろでは、メンタルやられちゃいますョ

多分、どんな職種でも…orz ケアは大切☆)

けれど、命を奪うのは、どんな理由を見つけても

不遜だし、正当化はできません。

 

磯村さんは、優しい雰囲気ありながら

『今日から俺は!!』の狂犬:サガラの狂気も、隠し持ってるので

かなり適役☆

 

 

2.洋子の子供の事

 

洋子は、子供を“病気“で亡くしていた。

 

そして、再び、妊娠したとき

喜びよりも、病気や障碍のほうの“心配“のほうが大きく

出生前診断を受けるかどうか、迷っていた。

異常があれば、産まないという選択もある。

 

そんな洋子に、さとくんは

『異常(障碍)があれば排除する』意識が

洋子にあることを、指摘した。

 

障碍者が生まれる前に、(母親が)排除することと

生まれた後に、(自分=さとくんが)排除することは

同じことじゃないかと、さとくんに言われた洋子は

否定しながらも、たじろいだ……

 

私は若い頃、命について、変?なことを考えたことがあった。(汗)

女性は、妊娠しなければ、毎月卵は流れていく。

赤ちゃんになれば、命は始まり、人間が始まるが

命の源である卵は、生きる可能性を秘めながらも

当然のように、生まれる命よりも多く、ムダに流れ

赤い葬式だと、感じたこともあった。(滝汗)      考えすぎ?(>_<)

(たとえ、もう赤ちゃんであっても、妊娠22週前後で

“扱われ方“が異なり、命が”定義“される現実もある)

 

洋子が、2人の自分自身と問答するシーンがいい。

 

親ならば、子供がどうであっても、愛しいはずで

理想でもある……

(義母いわく、わが子でも可愛いときだけじゃないと。

それを聞いて、心が軽くなったことも。)

 

わが子の健康を願うのは、当然のこと。

病気(障碍)がないほうがいい。

それは、決して、病気(障碍)の方を排除・否定しているわけではない。

しかし、だからといって

健康に生まれなかった、友人の子の誕生の祝福に

言葉を選ばないことは、ないのではないか…………

 

 

3.  障碍や病気を負う事

 

あるドキュメンタリーを見た。

視覚・聴覚に障碍あり、意思疎通できず、放置されていた方が

ある方の気づきにより、知能に問題はなく

工夫にすることで、意思疎通でき

“生活”できるまでになった例。

三重苦と言われたヘレン・ケラーは

親は、不憫に思うばかりで、なすすべなかったところ

サリバン先生の献身的な指導・援助で

大学に進学するまでになった。

 

その人の可能性を見出し、どれだけ手間をかけられるかは

ほとんど、運かもしれない………

暗い部屋に放置された女性にも、母親がいるが

施設に置きっぱなしという意図ではないと思う。

仕事して、収入を得なければならないし

奇跡の人=サリバン先生のようには、なかなか凡人はできない……

 

色々思うところはあると思いますが

介護・介助してくれる方々がいるのは、ありがたいです。

 

森にある、この施設は、隠れるように建てられているという。

そういえば、一部の人は、街中の老人ホームにも反対だという。

死に近い人たちだから、霊柩車を見たくないとか云々―

(おかしくない?高齢者同居のお宅はどうする?

そもそも、多くは病院で看取られるのでは??)

 

視野に入らなければ、考えることもなく

暮らせると思っているのだろーが

健常だと思っていても、誰でも老化したり、病気になったり

障碍を抱える可能性はあるのだから

生きる意味があるとかないとか、思うほうが意味ないヮ!

 

 

▼▼▼

 

 

自分の生活圏が、社会のすべてではないので

普段、思わずに済んでいることを

つきつけられて

自分の心の中をひっくり返して

自分の本心と対峙するのも、よいです。(^^)/

 

ソレを、言葉にする必要はありませんが

正しさの価値観や、本心の気道修正があれば

たまには、しておくのもよいかと。(*^^)v

 

 

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