阪神大震災の話 | もーええやん

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無気力こそ境地

私の家は東大阪・・・と言ってもほとんど生駒山のふもとに近いので、もうほとんど奈良と言っても間違いじゃない。


13年前、確か僕は小学校3年か4年だった。


正月を終えて戎神社で商売繁盛を祝ってそう日にちも経ってなかった。


両親は正月で休んだ分を取り戻そうと1週間バタバタしていた。


この時代学級崩壊がテレビで撮りだたされていた。


うちの学級も人のことを言えたもんではなく1週間のうち何度か休みであった。


朝・・・と言ってもあまりに早いので、子供の僕からしたらまだ夜だった。


いつもは母親の大声で起きていた僕はその日のことを事細かに覚えてる。


二段ベットの上で寝ていた僕。妙に揺れるので目が覚めた。


それまで地震を経験していない僕は、必死にベットを押さえている両親を見て


「何で揺らしておこすん??」


と言ったのを覚えている。


それぐらい実感が全くなかった。


それでも後から知ったことによるとそのときの地震は震度5を記録していた。


少し経ったらその地震は止み、さっきまで何もなかったように静かになった。


下の部屋に降りて余計に地震があったという実感がなくなった。


だがテレビをつけるとそれは現実だったんだと知る。


ニュースで昨日まで学級崩壊を論議していたコメンテーター達が姿を見せず、どのチャンネルでも神戸の上空からの様子が映っていた。


・・・・戦争でも起こったんやろか・・・・。


小学生の頭ではそうとしか思えなかった。


地震と言う言葉は授業では習ってはいたものの


今の状況とその言葉は結びつかなかった。


「あかん・・・どこも連絡つかへん」


と両親が電話の前で何度も受話器に手をやっていた。


その後も震度2が何回か起こった。


地震が起こらなくなってから父親は店を心配し出掛け


僕ら小学生はと言うと学校が休みで特に何もすることがなく


母親と震災の禍々しい映像を見ていた。


それから・・・・・1週間ほど経って堺の親戚の家に行った。


神戸も震災で大変なのは知っていたが実は堺市もひどかった。


水道管が破裂したまま放置されていたり、家は立っているものの原形をとどめていない。


「堺のほうには救援物資けーへん」


とおっちゃんが言ってた。


ミナミで商売をするようになり、当時の話を聞くと難波もかなりひどかったようだ。


同じように水道管が破裂して道がそこら中水浸し。


今、13年経って思うのは


僕らは戦争を経験していない。だから本や授業でいくら習っても正直実感がない。


実感がない以上に、ただ文章を何度も読んでマンネリさえしてしまっている。


同じようなことがこの阪神大震災でも言える。


テレビで


「今は阪神大震災知らない子供もいるんですよね。その子たちにいかに震災を伝えるか・・・」と言っていた。


それを聞いて僕は・・・僕も同じなんだと思った。


僕は震災を経験したから伝えたい・・・という気持ちはある。


でも戦争は経験していないから実感がない。


伝える難しさ。


テレビのその言葉を聞いて


経験がない・・・という恐怖をかみ締めた。


この年になってようやく、日本も戦争していたんだ・・・と実感できた。


日本は平和ボケしている・・・その言葉も身にしみて思った。


不慮の事故、災害。人は死にたくなくても死んでしまった人達がいる。


頑張らないと。


この言葉にたくさんの思いを込めて


今日も人を楽しませれるよう頑張っていこう。


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