経験を積むということ | 勇者親分(負けず嫌いの欲しがり屋)

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http://www.asahi.com/health/sanada/TKY201110180386.html

 本当に車の運転が上手になったな、自分はもう一人前のドライバーだなと思ったのは免許を取り、公道を走るようになって3年くらいたってからだった。免許を取った直後はよく父を助手席に座らせて「教習所では教えない運転のコツと常識」を教えてもらった。単に法令に乗っ取って運転するだけではない「ドライバー同士の阿吽の呼吸と常識」。そんなものも上手くこなせるようになって、他人を乗せても怖い思いをさせることはなくなった。他のドライバーとちょっとしたアイコンタクトで道を譲り合ったり、前後左右の確認が足りていないドライバーの車をうまく回避するようになった。

 もちろん筆記試験は100点、実技も問題なく運転免許試験には一回で合格した。もともと慎重で、運動神経反射神経も悪くはなく、特段運転技術が下手と言われた事はない。むしろ、「女の子にしては感覚がいい」(今だったらセクハラ発言かもしれないが)と褒められたくらいだ。

 そう。今から思えば私は免許取得当初も、一般的なドライバーとしてはごく普通の、あるいは、少し優良なくらいの普通自動車運転免許取得者としてスタートしたと思う。

 そんな私は、免許を取った後も「自分は(ドライバーとして)まだまだだ」と思っていた。だって免許取りたての初心者。若葉マークを車体の前後ろにはり、はがれてしまった時のために(あの磁気シートは時々はがれて落ちてしまうのだ)予備の分まで車に積んでいた。研修(父の教え)もちゃんとこなし、道(公道)を走ってみんなに迷惑運転をしないように、はやく一人前になろうと思っていた。人の車に乗せて貰う時には助手席に座り、どんなところに気をつけながら運転しているのか教えて貰ったりもした。

 それでも、免許取得1年も立つと、ちょっと慣れが出てくる。若葉マークも取れて、気分的に「私はれっきとしたドライバーよ」という気持ちになってきた。最初は教えられた通り10時10分の位置で握っていたハンドルも時々片手になり、ちょっと反応の悪い車にはちょっとイラっとするようになる。

 私がはじめての事故をしたのはそれくらいの時だった。

すれ違えると思った狭い道で、実際にはすれ違えず、左横にあった電信柱に「ザリザリザリ」と車をこすりつけてしまった。こちらが電信柱の手前で停止してやり過ごせばよかったのだ。私の放漫だったと思う。

 車体横腹をこすりつけただけなのだから、別段車が動かなくなったわけではない。私はそのまま車を運転して、少し離れたところの空き地に車を止めるとキズの状態を確認した。ただこすっただけではなくて、車体がへこんでいる。すれ違いざまにこすった、というよりは、電信柱にぶつけた、ようだ。

 「私の車幅感覚が悪いということだな。それに、『これくらいの幅、これくらいのスピードで通れる』と、運転自体が雑になってた。そうだ、雑になってたんだよ。これが人や自転車だったらどうなってたんだ。ああ、だめだ、だめだ。気をつけなくっちゃ。」

 私はびくびくしながら家に帰った。

 帰宅して父に車を傷つけてしまったことと状況を報告した。きっと酷くしかられるだろうと思っていた。

 父が外に出て車の状態を確認する間、うなだれて判定を待つ。

 父は私の顔とキズを交互に見て「うん、わかった。明日修理に出すから。ちょっと慣れてきて雑になったな。これからは気をつけて運転なさい」とだけ言った。

 私が反省しているのがわかったのだと思う。

 以来、私は事故をせず、3年たった頃に父から「運転うまくなったな」と一言だけ言われた。ドライバー歴ももうずいぶん長くなったけれども、あれからもちょっとずつ上手になっているように思う。妙に自信がついて雑になったり、ヒヤリとすることがあって反省したり。おかげ様で大きな事故には至っていない。

 医者としての経験もこんな感じなのだろうなぁ、と思う。少し経験を積んで、自分に自信がついたり、できると思っていたのにと自信を失ったり。けれども1番大切なのは「慎重さ」なのだと思う。

 今日の研修医の講義ではこんな話をした。