http://www.asahi.com/showbiz/music/TKY201001090210.html
より
自分の限界に早く気づき、それを克服すべく身体と精神をなめらかに鍛えること――。
演奏家の質は舞台だけでなく、教育を通して次世代に何を伝えるかによっても評価される。米国の名ピアニスト、レオン・フライシャーが先ごろ、東京のサントリーホールで若いピアニストのために行ったワークショップを見て、こうした思いに駆られた。
同ホールが米国のカーネギーホールと連携して行った、約1週間に及ぶ教育プログラム。プロを目指す日本の若手3人が本舞台でモーツァルトのピアノ協奏曲を弾くまで、個人レッスンやオーケストラとのリハーサルなどで鍛えられた。
「鍛える」とは言っても、やみくもに技量をたたき込むのとは正反対だった。身体と心を自然に保ったまま作品と向き合う方法を、合理的な視点から納得の行くまで教え込むのだ。
筋肉が収縮するジストニアという難病に侵され、40年にわたって右手の機能障害に苦しんだフライシャーの、過酷な経験に基づいた音楽伝授なのである。
健康管理法であるピラテス・メソッドを組み込んだ斬新な手法も、それゆえだった。そのレッスンにオブザーバー参加した彼は、「若いころ、筋肉の痛みを乗り越えれば、それだけうまくなると考えたのは誤りだった」と、苦い思い出を語った。
「指先のコントロールを支えているのは、実は肩や背中、腰などの大きな筋肉であり、それが安定するほど、細かな筋肉をより柔軟に動かせる」と、体全体のウオーミングアップの重要性を強調する。
独特の身体論は作品表現にもつながっているようだ。オーケストラとのリハーサルでは、ミクロな筋肉の動きばかりにこだわりマクロな動きを無視した場合には、作品が激しい跳躍的表現を要求するときに対応できない、との例を強調していた。
作品が宿す精神性や詩的表現に関心を向けさせよう、ともしていた。「この悲哀感はモーツァルトだけのものでも、我々演奏家だけのものでもない。全人類が共有するものだ」
左手だけでの演奏を長く強いられ、指揮者として活路を見いだそうともがいた経験が、作品と向き合う視線をより鋭く、深いものにしたのではないか。以前インタビューしたときも、苦しい経験を肯定的に受け止めている様子が印象的だった。
リハーサルで自ら模範を示した短いフレーズでさえ、神々しいまでの音の粒立ちが感じられ、はっとさせられた。両手機能が復活した後に録音したモーツァルトの協奏曲23番などの入ったCDでも、その高い境地は実証済みである。
かつて大指揮者ジョージ・セルと組んで録音した数々の協奏曲では、あふれる才気でまばゆいほどだった。あのころの鮮やかな指の動きはさすがに消えたが、我執を捨てた今の演奏は別次元のものに昇華している。
企画に参加した3人は実に幸せな経験をしたと思える。演奏家の全人格を傾けた指導を受けられたのだから。(上坂樹)