JCO臨界事故から10年 | 勇者親分(負けず嫌いの欲しがり屋)

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より抜粋

東海村JCO臨界事故(とうかいむらジェイシーオーりんかいじこ)は、1999年 9月30日茨城県 那珂郡 東海村 で、JCO (株式会社ジェー・シー・オー)(住友金属鉱山 の子会社)の核燃料加工施設が起こした臨界事故被曝 による死者2名を出した原子力事故 である。


1999年 9月30日 、JCOの核燃料加工施設内で核燃料サイクル開発機構高速増殖実験炉常陽 」向けの燃料加工の工程中に、ウラン 溶液が臨界状態 に達し核分裂連鎖反応 が発生。この反応は約20時間持続した。これにより、至近距離で致死量中性子線 を浴びた作業員3人中、2人が死亡した。

事故は、製品であるウラン溶液(硝酸ウラニル )を均質化する工程で発生した。溶液は本来、中性子 が外に抜けやすいよう細長く作られた(形状制限された)「貯塔」で均質化を行う事になっていた。しかし、「沈殿槽」と呼ばれる、ずんぐりした形状で周囲を冷却水のジャケットに包まれた装置を使用したために、発生した中性子による反応の確率が高くなり、臨界状態に至った。


午前10時35分に、転換試験棟で警報 が鳴り、午前11時15分に、臨界事故の可能性ありとの第一報がJCOから科学技術庁 (当時)にもたらされた。そして11時52分には、被曝した三人を搬送するため、国立水戸病院 に向けて救急車 が出発した。東海村による屋内退避を呼びかける広報が始まったのは、12時30分からである[1]

国際原子力事象評価尺度 はレベル4で、周辺の多数の住民が緊急避難 を強いられた。テレビでは当時の内閣総理大臣小渕恵三 が周辺住民に向かって外出しないようにと呼びかけた。現地では事故現場から半径350m以内の住民約40世帯への避難要請、500m以内の住民への避難勧告、10km以内の住民への屋内退避/換気装置停止呼びかけ、現場周辺の県道国道常磐自動車道 の閉鎖、JR東日本常磐線 水戸 - 日立 間、水郡線 水戸 - 常陸大子常陸太田 間の運転見合わせ、陸上自衛隊 への災害派遣 要請といった措置がとられた。以上の措置は全て日本で初めてである。10km圏内の屋内退避勧告の発表は午後10時半、解除されたのは翌日午後4時半だった。

JCO のわずか400m北側には常磐自動車道の東海パーキングエリア があり、ここの利用者も危険にさらされていた。行楽シーズンの昼間であり、常磐自動車道を閉鎖するまでには大勢の観光客が出入りしていたはずだが、この利用者に対する健康調査はおこなわれなかった。

事故原因は、旧動燃 が発注した高速増殖炉 の研究炉「常陽」用核燃料加工(UF6をUO2粉末に再転換 )の中間工程を担うJCOの杜撰な作業工程管理である。JCOが常陽用の燃料を加工するにあたり、国の管理規定に沿う正規マニュアル ではなく「裏マニュアル」を運用しており、例えば、原料であるウラン化合物の粉末を溶解する工程では、正規マニュアルでは「溶解塔」という装置を使用した手順だったが、裏マニュアルではステンレスバケツ を用いた手順に改変されていた。事故当日はこの裏マニュアルをも改悪した手順で作業がなされていた。具体的には、最終工程である製品の均質化作業で、臨界状態 に至らないよう形状制限がなされた容器(貯塔)を使用するところを、作業の効率化を図るため、別の、背丈が低く内径の広い、冷却水 のジャケットに包まれた容器(沈殿槽)に変更していた。

その結果、濃縮度18.8%の硝酸ウラニル 水溶液 を不当に大量に貯蔵した容器の周りにある冷却水中性子 の反射材となって溶液が臨界 状態となり、中性子線 等が大量に放射された。これは制御不能の原子炉が出現したようなものである。ステンレスバケツで溶液を扱っていた作業員の一人は、「約16kgのウラン溶液を溶解槽に移している時に青い光 が出た」(チェレンコフ光 )と語った。「うちが起こした事故はうちで処理しなければならない。」(社長・工場長談)とJCO関係者らが、数回に分けて内部に突入して冷却水を抜き、連鎖反応 を止めることにより事故は終息した。中性子線量が検出限界以下になったのが確認されたのは、臨界状態の開始から20時間経った午前6時半だった。水抜き作業等で被曝した人は計18人、その後のホウ酸 水注入で被曝した人は6人だった[2] 。この事故の現象は戦時中陸軍 が行っていた核兵器研究の理論に近いものだった。(日本の原子爆弾開発 参照)


屋内避難勧告は本当に大変でした。家から出るなとの事なので、道路を走ってる車はないし、お店もほとんど休み。出勤も、できないので、会社や工場も休みの街が死んだような二日間でした。

放射線の怖いとこは…目に見えない事><

さすがのマスコミ関係者も、臨界事故発覚後は現場に近寄らなかった!

変な話を一つ、知り合いが、たまたま閉鎖前の常磐道を走っており、何も知らず、日立南太田ICで降りたら、ICは避難した後で、無人…高速代が只になったっと言ってました。