宮方(南朝の事) | 勇者親分(負けず嫌いの欲しがり屋)

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親分の祖母の実家は、宮方だったので、南朝をご紹介^^

なんて言っても教育が「逆賊足利!」ですから^^

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%9C%9D_(%E6%97%A5%E6%9C%AC )

より

南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代 に京都以南の大和国吉野奈良県 吉野郡 吉野町)、賀名生 (同県五條市 西吉野町)、摂津国住吉大阪府 大阪市 住吉区 )を本拠とした大覚寺統 の後醍醐天皇に属する朝廷 。ちなみに、大覚寺統の嫡流は後二条天皇 の皇胤である木寺宮家 である。1336年 から1392年 まで56年あまり存続し、叙位や元号 の制定など政権としての機能を有した。

建武政権の瓦解と北朝の成立

鎌倉時代に皇統は後深草系統の持明院統 と亀山系統の大覚寺統 のふたつに分裂する両統迭立 が起こる。両統は皇位を争奪し、鎌倉幕府が仲裁していた。文保2年(1318年)に践祚 して親政を開始した大覚寺統の後醍醐天皇 は倒幕計画を企て、1331年に三種の神器 を持って笠置 山へ入り挙兵すると、幕府の奏請により持明院統の光厳天皇践祚 される。

1333年、反幕勢力の結集により鎌倉幕府 が滅亡すると後醍醐天皇は京へ戻り、光厳天皇と正慶年号を廃して建武の新政 を開始する。1335年建武 2年)、7月に関東で中先代の乱 が起こると後醍醐天皇は討伐に向かった足利尊氏 を黙認するが、乱を平定した尊氏は鎌倉 に留まり建武政権から離反する。宮方は京都 に進撃してきた尊氏を撃破する。翌1336年、九州 落ちしていた尊氏は持明院統光厳上皇 から院宣 を受けて再び東上する。宮方では新田義貞楠木正成 らを迎撃に派遣するが、5月尊氏は湊川の戦い において新田ら宮方を撃破して入京する。後醍醐天皇は叡山に逃れて抵抗するが、8月には光明天皇を践祚して北朝が成立し、11月に帰京した後醍醐天皇から三種の神器 を接収した尊氏は京都に武家政権 (のちの室町幕府 )を成立させる

南朝の成立と南北朝併立

後醍醐天皇は京都を脱出して吉野へ逃れて朝廷を開き、光明天皇に渡した神器は偽物であると主張し、南北朝が成立する。以後、吉野の朝廷は南朝、京都の朝廷は北朝 と呼ばれる。後醍醐は、新田義貞恒良親王尊良親王 を奉じさせて北陸へ、懐良親王 を九州へ派遣し、北畠親房常陸国 へ赴いて、それぞれ諸国で南朝勢力の結集を図る。新田義貞、北畠顕家 らはそれぞれ撃破されて戦死し、1339年延元 4年/暦応 2年)には後醍醐が死去して後村上天皇 が即位する。一方、尊氏は1338年 (延元3年/暦応元年)に北朝から征夷大将軍 に任じられる。後醍醐の死後は北畠親房 などが南朝を指揮するが、1348年正平 3年/貞和 2年)には楠木正行 らが四條畷の戦い において足利方の高師直 に敗北し、さらに吉野も奪われた南朝は賀名生へ移る。

足利政権の分裂と正平一統

足利政権では将軍尊氏や足利家執事の高師直 と実質的政務を任された尊氏実弟の足利直義 が対立し、やがて全国的な争乱に発展する観応の擾乱 が起こり、これを契機に南朝は再び勢力を回復する。1350年12月、師直のクーデター で失脚した直義は京都を脱出し、師直打倒の兵を募る。北朝は直義討伐の院宣 を下し、南朝は直義の帰服に応じる。直義は師直を追い、さらに摂津で尊氏を撃破して和睦する。1351年 (正平6年/観応 2年)、巻き返しを図る尊氏が南朝に講和条件を出して和睦し、正平一統 が成立して年号の統一が行われる。尊氏は鎌倉で直義を追い謀殺するが、南朝はこの機会に京と鎌倉を同時奪還する軍事的進攻を行い、北朝神器の接収、北朝の光厳・光明・崇光 三上皇と皇太子直仁親王 の拉致を行い一統は破談となる。京と鎌倉は足利方に奪還され、北朝は神器と治天が不在であったが後光厳の践祚により再建される。

後村上天皇時代と南朝衰退

この頃、九州において少弐氏 に擁立されていた足利直冬 は九州から駆逐され、同年11月に南朝に属して尊氏に抵抗する。1353年 (正平8年/文和 2年)には楠木正儀山名時氏 らが二度目の京都奪還を果たすも短期間で駆逐される。翌1354年、4月には主導的人物であった北畠親房 が死去、10月に後村上天皇 は賀名生から河内金剛寺 へ移る。1355年 (正平10年/文和4年)にも直冬を奉じた山名時氏 らが京都侵攻を行うが、維持出来ずに撤退している。

1358年 (正平13年/延文 3年)に北朝では足利尊氏が死去し、2代将軍となった足利義詮 は本格的な南朝掃討をはじめる。1361年 (正平16年/康安 元年)には足利政権において政争から失脚した執事の細川清氏 が南朝に属し、楠木正儀らと4度目の京都侵攻を行い、一時的に占領する。その後、後村上天皇が摂津国住吉大社 宮司の津守氏 の正印殿を約10年間、行宮(住吉行宮 )とし、住吉大神 を奉じる瀬戸内海の水軍を傘下にして、四国、九州との連絡網を確立し、南朝は各地で活動するが、1363年には山名氏大内氏 の北朝への帰順、楠木正儀の投降などで衰退し、拉致した三上皇を返還するなど講和的態度も示している。

長慶天皇と南朝の後退

1368年 (正平23年/応安 元年)には後村上天皇が住吉行宮で崩御し、同地にて長慶天皇 が即位する。足利政権では有力守護の佐々木道誉 、3代将軍の足利義満 のもとで管領 を務めた細川頼之 などが南朝の楠木正儀と独自に交渉を行っていたが、長慶天皇は北朝に対して強硬的な人物であったと考えられており、和睦交渉は一時途絶し、翌1369年 (正平23年/応安2年)に正儀は北朝へ投降する。南朝の征西府懐良親王菊池氏阿蘇氏宇都宮氏 の武力を背景に大宰府を有して九州を制圧していたが、九州探題 として赴任した今川貞世 (了俊)に駆逐される。その後交渉が再開され、南朝の使者が京都へ赴いている。1383年弘和 3年/永徳 3年)に長慶天皇は弟の後亀山天皇 に譲位する。なお、長慶天皇は即位していないという説もある。

南北朝合一

1391年元中 8年/明徳 2年)の明徳の乱 で有力守護の山名氏を弱体化させ、武家勢力を統率した義満は、和泉紀伊守護 で南朝と領地を接する大内義弘 の仲介で本格的交渉を開始する。南朝から北朝への神器の引渡し、国衙領 を大覚寺統、長講堂領 を持明院統の領地とする事、皇位は両統迭立 とする事など3か条を条件に和睦が成立し、1392年 (元中9年/明徳3年)に後亀山天皇は京都へ赴いて後小松天皇 に神器を譲渡し、南朝が解消される形で南北朝合一は成立した(明徳の和約 )。南朝に属していた公家 は一部は北朝で任官したが、官職は既に北朝の公家で占められており、多くは公家社会への復帰が適わなかったと考えられている。

後南朝

後の1412年応永 19年)には後小松皇子の称光天皇 が即位しており、両統迭立の条件は反故にされている。これに反発した南朝の後胤や遺臣らは、朝廷や幕府に対する反抗を15世紀 半ばまで続けた。これを後南朝 という。