258日目 「みすゞさん」 | USKの旅日記

USKの旅日記

26歳からの青春の記憶


2014.10.10
下関市(山口)→長門市(山口)



仙崎イカ? うまそー(☆∀☆)





仙崎駅

金子みすゞのふるさとを散策。



駅から伸びる「みすゞ通り」には、彼女の詩にも出てくる、小学校やお寺や八百屋など縁のスポットが点在。

本屋を営んでたみすゞの実家、金子文英堂の跡地に建てられた金子みすゞ記念館と蒲鉾板のモザイク画。すごいね(^^)







中はみすゞが住んでた当時の様子を再現してる。彼女は20歳までここで過ごした。





2Fのみすゞの部屋。彼女はこの窓からよく外の通り眺めててらしい。



常設展示室では、誕生から26歳で亡くなるまでの彼女の生涯、縁の人々や、詩をパネルで紹介。幼少の頃の貴重な写真もみれた。とてもおっとりと優しそうなイメージの彼女だが、小さい時から笑顔が素敵で、賢く、皆から慕われてる様子が、当時の友だちの手記などから窺えた。知れば知るほど魅力的な人だと思った。

なんとなく、最期は自殺したのかな、と匂わせる内容だったから気になってあとで少し調べてみた。

幼い時、実父が死亡し、生まれて間もない弟は下関で書店を営んでた母の妹夫婦の家に養子としてもらわれていったが、叔母の死後、弟の養父(叔父)と、みすゞの母が再婚(!)し、弟とは実の姉弟でありながら、それと明かされなかったため、義理の姉弟関係に(!!)。

叔父(義父)の書店の番頭挌の男と結婚し、娘をひとりもうける。しかし、夫はみすゞの弟との不仲から次第に叔父に冷遇されるようになり、元々の女癖の悪さも原因で、その書店を追われることに。みすゞは夫に従ったが、自暴自棄になった夫の放蕩は収まらず、後ろめたさからか、彼女に詩の投稿や、詩人仲間との文通を禁じた。

そして、みすゞに淋病をうつし離婚。みすゞはせめて娘は手元で育てたいと願い、夫も一度受け入れたが、すぐに考えを翻し娘の親権を強硬に要求。夫への抵抗心と、おそらく病(女性の淋病は適切な処置がなされないと重症化する)の辛さから、1930年3月10日、彼女は娘を自分の母に託すことを懇願する遺書を残し、服毒自殺。死の前夜、みすゞは娘を風呂に入れながら童謡を歌ってたらしい。

さぞ無念だったろう。



小学生の時、教科書にあった「私と小鳥と鈴と」、「大漁」はよく記憶してるが、今回初めて「こだまでしょうか」という作品を知った。じんわりくる詩だ。



 こだまでしょうか


「遊ぼう」っていうと    「遊ぼう」っていう。

「馬鹿」っていうと    「馬鹿」っていう。

「もう遊ばない」っていうと    「もう遊ばない」っていう。


そうして、あとでさみしくなって

「ごめんね」っていうと    「ごめんね」っていう。


こだまでしょうか


いいえ、誰でも。



最後の言葉は、こだまを返すのはこだまだけでしょうか。いいえ、私たちは誰でもできるのです。という意味だそうだ。どうして、こんな心の優しい、素敵な人が死ななくてはならないのか。残念でならない。

企画展は、金澤翔子さんという書道家の「金子みすゞの世界展」というのをやってた。NHK大河「平清盛」の題字を揮毫。厳島神社で奉納揮毫の他、東大寺、中尊寺などで個展を開催。師は母。

すげー力強い字だ。ダウン症の彼女にはみすゞの詩の世界はどう映るのか。どの作品も力強く、よく読み取れなかった。




みすゞ通りを散策。みる方向で2種類のみすゞが楽しめる仙崎名産の蒲鉾の板製モザイクアート。



2万枚の蒲鉾板をつかって「大漁」の世界をイメージしたという作品は、照明を落とすと鰯の群れが発光する。





通りの家々の軒先には、各々好きなみすゞの詩が掲げられてる。遍照寺の彼女の墓をお参りし、発つ。



仙崎湾側には、太平洋戦争終結後、41万人の引き揚げ者を迎えた船着き場があった。




みすゞ公園から仙崎の街や、向こうの青海島を眺望。

今日は空が重く、風が強い。また台風が来るようだ。












天気:晴れ後曇り
走行距離:40.6km
公園テント泊