永遠に | 小宮山友祐オフィシャルブログ「この道の先に~」Powered by Ameba

永遠に

昨日、私の父が他界しました。


肺癌の為、享年64歳でした。


存命中、公私共にお世話になった皆様方に、この場をお借りして御礼を申し上げます。


ありがとうございました。


2012年の始め頃より、入退院を繰り返し、闘病生活を送ってきました。


検査で癌を発見した頃には、もう手術による根治は出来ない状況で、放射線治療と化学療法を行っていくという状態でした。


最初は、父自身もショックを受けていましたが、癌と向き合い、治療をしていく覚悟を持って、懸命に治療してきました。


放射線治療や抗がん剤による治療は身体へのダメージも大きく、日に日に痩せていく、やつれていく父を見るのはとても辛かったです。


しかし、それでも自宅にいる時は元気な様子で、散歩をしたり、趣味のガーデニングをしたりしていました。


容態が急変したのは、今年に入ってのことでした。


食欲がなくなり、寝たきりになり、入院せざる得ない状況になりました。


そして、昨日の正午に父は旅立ちました。


父との最後の会話は、27日の月曜日にお見舞いに行った時、『昨日の試合、俺のミスで負けちゃったよ』と俺が言ったら、


親父は『ミスはお前のミスかも知れないが、負けたのはお前のせいじゃない。気にするな』と。


これが最後の会話でした。


最後の最後まで、俺は親父に励まされました。


俺が親父を励ましに来たのに、逆に病床の親父に励まされました。


この言葉が最後になるとは思いませんでした。


もっともっと色々なことを話したかったです。


もっともっと色々なことを教わりたかったです。


もっともっと一緒に時間を過ごしたかったです。




親父がまだ入退院を繰り返している頃、実家に帰ると色々な話をしました。


やっぱり俺との会話の中では、フットサルの話が中心でした。


2012年の4月、日本代表としてスペイン遠征から帰ってきた頃、お見舞いに行ったとき、父に言われたのが、


『俺をワールドカップに連れてってくれ』でした。


俺は『その身体じゃ無理でしょ?』と言いました。


父は『ワールドカップは何としても観に行きたい』と俺に力強く言いました。


まだ、アジア選手権前のことです。


メンバーに選ばれるかもわからない時にそう言われ、何としてもメンバーに入り、アジア選手権を勝ち抜き、ワールドカップへの切符を取ってくるんだと親父に背中を押されたような気がしました。


結果はアジア選手権を優勝し、アジア1位でワールドカップへの出場権を勝ち取ることが出来ました。


その報告を親父にしに行ったとき、


満面の笑顔で『おめでとう』と言ってくれました。


そして、これで俺も『ワールドカップに行ける』と喜んでいたのを良く覚えています。


ただ、日に日に痩せていく親父を見て、入院の日数も長くなり、治療期間も長くなり、俺は正直、ワールドカップが行われるタイまで、来ることは難しいなって思いました。


2012年の10月に入り、俺がワールドカップのメンバーに選ばれ、国内合宿、壮行試合、ワールドカップにと出発する前に親父の病院を訪ねた時、


『全試合は行けないけど、1試合だけでもいくつもりだ』って言いました。


俺は『ちゃんと主治医の先生の許可をもらったらね』と、半分来るのは難しいなと思いながら、伝えました。


むしろ、病を抱えた身体で、異国の地に行くことなど、やめてくれって言いたかった。


しかし、親父の性格上、自分で行くと言ったら絶対に来るなとも思っていました。


頑固な上に、有言実行の人だったから。


言ったからには、来るかもと思いながらも俺は半信半疑の気持ちでした。


ワールドカップが始まり、ブラジル、ポルトガル戦は、タイの首都バンコクからバスで5時間かかる街での試合。


飛行機で6~7時間後にさらに5時間は辛いから、もし来るならリビア戦なのかなって母親には伝えました。


そのリビア戦に、親父は来ました。


異国の地、タイのバンコクまで2泊3日の強行スケジュールで。


ワールドカップで唯一勝った試合を親父は観戦しました。


試合翌日に宿泊先のホテルを訪ねてくれたので、ロビーで話した。


『勝ち試合を見れて俺はラッキーだ』と喜ぶ親父に俺は『来れて良かったね。見に来てもらえて嬉しいよ』と伝えました。


その後、『本当に医者の許可をもらったの?』って聞いたら、親父はそっけなく『もらったよ』って言っていました。


あとで母親に聞いたら、半ば強引に許可をもらったらしい。




家族で話しているところにテツ(村上選手)やその時、同部屋だったノブ(小曽戸選手)も来て、みんなで話しました。



テツはFIREFOXの時にうちの実家にご飯を食べに来たこともあり、両親とも面識がありました。


ノブはワールドカップの時にノブのご両親とうちの両親が仲良くなったみたいで、ノブのご両親も含め、みんなで話していました。



と、そこにミゲル監督と通訳の小森さんが来ました。


親父はミゲル監督のファンでした。


ミゲル監督の本や雑誌でのインタビュー、俺の話からミゲル監督の人柄に魅力を感じたようで、一度代表合宿に行く俺に、ミゲル監督のサインをもらって来てくれとミゲル監督の本を持たされました。


ミゲル監督に頼むのがちょっと照れ臭かったですが、監督も快諾してくれて、サインだけでなく、親父宛てにメッセージもくれました。


スペイン語で書いてあったので、俺は直接何て書いてあるのかわからなかったですが、親父は辞書を引いて、自分でスペイン語を勉強して、理解したようでした。


俺が親父をミゲル監督に紹介した時に、ミゲル監督もサインのことを覚えていてくれたようで。


ミゲル監督は、親父に、


『あなたの偉大な魂は息子さんにしっかりと受け継がれていますよ』


と言ってくれたそうです。




親父はそのことをとても喜んでいました。


ワールドカップが終わった後、親父が俺の試合を会場に観に来ることは、もうありませんでした。


ワールドカップのリビア戦が、親父が観戦してくれた最後の試合となりました。


会場に観に来れなくなっても、親父は試合結果を常に気にしてくれていました。


会った時に、またはメールで何度もメッセージをくれました。


でも、もうメッセージは来ません。


寂しいことですが、悲しいことですが、受け入れるしかありません。


俺は、親父に甘えていたと思います。


頼っていたと思います。


支えられていたと思います。


もう、その親父はいません。


これからは自分がもっともっと強くなって、親父のように有言実行をできる人間になりたいと思います。


本当に言葉では表現出来ないくらい感謝の気持ちで一杯です。


親父の子どもに生まれて、本当に良かったです。



ただ、親父。


まだ逝くのが、早いよ。


これからじゃん、親父の人生。


楽しいこと、やりたいこと、まだまだいっぱいあったでしょ。


俺は、もっと親父と共に人生を歩みたかったよ。


これからは、遥か空の上から家族みんなを見守ってね。


最後に親父、


ありがとう。


そして、


『俺はあなたの自慢の息子になれましたか?』