エルトゥールル号遭難事件


1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥールルが、現在の和歌山県下最大のである紀伊大島(きいおおしま)で遭難し500名以上の犠牲者を出した事件である。


この事件は、日本とトルコの友好関係の始まりと考えられている。

●来日し、帰途に遭難

台風による強風にあおられ岩礁に激突、座礁し浸水して水蒸気爆発を起こし、沈没した。600名以上が海へ投げ出された。

●救難活動

通報を受けた大島村(現在の串本町)住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たった。


この時、台風により出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど生存者たちの救護に努めた。


この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され生還することができた。


その一方で残る587名は死亡または行方不明となり、大惨事となった。


知らせを聞いた明治天皇はこの遭難に大いに心を痛め、政府として可能な限りの援助を行うよう指示した。各新聞は衝撃的なニュースとして伝え、多くの義捐金・弔慰金が寄せられた。


●送還

こうして遭難者に対する支援が政府をあげて行われ、日本から出航、オスマン帝国の首都・イスタンブルに送り届けた。

●遭難事件後の日土関係

新聞を通じて大島村民による救助活動や、大日本帝国政府の尽力が伝えられ、当時オスマン帝国の人々は、遠い異国である日本と日本人に対して、好印象を抱いたといわれている。

●「日土友好の起点」の記憶

エルトゥールル号遭難事件はオスマン帝国末期の外交政策と海軍の弱体化がもたらした悲劇であったが、この事件で被害者に対して示された日本人の友誼は、その後も長く日土友好関係の起点として両国の関係者に記憶されることになった。トルコ人が公的な場で日本人に対して日土友好の歴史について語るとき、必ずといっていいほど第一に持ち出されるのがエルトゥールル号遭難事件の顛末である

●イラン・イラク戦争

イラン・イラク戦争。

当時、イラクのサダム・フセインは、イラン上空の航空機に対する期限を定めた無差別攻撃宣言を行った。


各国は期限までにイラン在住の国民をメヘラーバード国際空港から軍用機や旅客機で救出したものの、日本は自衛隊の海外派遣不可の原則のために、航空自衛隊機による救援が出来なかったうえ、日本航空はイランとイラクによる航行安全の保証がされない限り、テヘランのメヘラーバード国際空港行きへの臨時便は出さないとし、在イラン邦人はメヘラーバード国際空港の出発ロビーで、誰にも助けて貰えない危機的状況に陥った。


野村豊イラン駐在大使が、トルコのビルレル駐在大使に窮状を訴えたところ、


ビルレル大使は


「わかりました。ただちに本国に求め、救援機を派遣させましょう。トルコ人なら誰もが、エルトゥールルの遭難の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょうとも。」


と答え、大使の要請を受けてトルコ航空は自国民救援のための最終便を2機に増やしてくれたので、215名の日本人はこれに分乗し、期限ぎりぎりで危機を脱することができ、全員、トルコ経由で無事に帰国できたのである。


さらにトルコ機は、トルコがイラン近隣に位置することから、陸路での脱出もできる自国民に優先して日本人の救出を計ってくれ、実際この救援機に乗れなかったトルコ人約500名は、陸路自動車でイランを脱出した。



エルトゥールル号殉難将士慰霊碑
(和歌山県串本町)